答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

もうひとつの〈2024年問題〉

2024年08月05日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
 のつづき

さて、そこでぼくは、とても大事なことに気づいてしまいました。
(というか、けっこう以前からもやもやとしていたことが、ハッキリと形をもって脳内にあらわれたというのが正しいのですけど)
ポイントはここです。

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ところが、如何せん能力がない。いや、そうは認めたくないが、そう認めざるを得ない現実に、何度も天を仰いで嘆息したものです。しかし、あきらめ切れなかった。その経緯の一つひとつを詳らかにするほど覚えてはいないのですが、牛のように、ゆっくり歩いては立ち止まり、立ち止まってはまたゆっくり歩きをつづけているうちに、気がつけば、「なんとかまあまあ」というぐらいのレベルにはたどり着いたようです。ところがこれは、何より効率を重んじるビジネスの世界では非常によくない。〈時間対効果〉を指標にすれば、自慢げに語るような資格はまったくありません。
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このような例は、ぼくのようないささか薹が立ちすぎた人間ならば、自慢どころか、むしろ恥じ入ってしかるべきことでしょう。
しかしそれが、まだ仕事を覚えたて、あるいはこれから第一線に立ってバリバリとやろうとする若人ならどうでしょうか。
ぼくは胸を張ってよいと思います。たとえそれが牛の歩みだったとしても、ロング・アンド・ワインディング・ロードだったとしても、はたまた一日一歩三日で三歩そこから二歩下がって合計五日で一歩しか進まないような道程だったとしても、けっして恥じることはありません。
ある意味ではそれが仕事を覚えるということであり、凡人は皆、そうやって一人前になっていくのです。特に〈技術〉や〈技能〉を習得するということは、多かれ少なかれそういうことだとぼくは思っています。

それが、ぼくが気づいた大事なことです。

あら、アナタ、「なんだそんなことかよ」と笑いましたね。
そう、「そんなこと」です。
しかし、ぼくが気づいたのは、考えようによっては背筋が寒くなるような話です。けっして笑いごとなどではないのです。


〈建設業の2024年問題〉が喧しい昨今です。既にみなさんご存知のように、直接的な要因は、建設・運送・医療の3業種に限って一部の施行が猶予されていた働き方改革関連一括法の全面施行が今年度から開始されたことです。
かつては美風とされていたこともある長時間労働が完全アウトとなりました。はたらくことより休むことの方がランクが上です。寝食を忘れてはたらくなど以ての外です。
それらに反するものは、すべて〈ブラック〉の烙印を押され、悪と決めつけられてしまいます。

といっても、ぼくは基本的にそれがわるいことだとは思っていません。原則論で言えば、あきらかにソッチの方に歩があることも、じゅうぶん承知しています。

わるくないと考える理由はふたつあります。
ひとつは、これまでの業界の労働環境が他産業に比べてよくなかったこと。端的に言うと休みが少ない。とはいえそれはあくまで相対的なものですので、それのみをもって一概にわるいと決めつけるのも乱暴な話ではあるのですけれど、その比較が単なる統計上の数字にとどまることなく、建設という仕事そのものの評価となって表れている以上、せめて他産業並みにしなければ土俵に立つことができません(ご推察どおり、ぼくはそれに対して異論を持つ者です。さはさりとても・・です)。

ふたつめは、きのうも書いたように時間対効果です。端的に言うと、”Time is money"=〈時は金なり〉。時間を効率的に使うことで生産性が向上し、収益は上がります。その理を無視していたずらに長い時間を費やすことは、そこにあるはずの収益や利益の損失を意味します。残業フリーで休日出勤もオッケーとなれば、少くない数の人たちは、なぜだかついつい時間を浪費してしまいます。ですから、上手に時間を使うためにはある程度の規制を設けた方がよい効果をもたらす場合があります。与えられた時間が限られていれば、必然的に短い時間で効率的に仕事をしなければならなくなるからです。効率を優先的に考えるならば、それが正解でしょう。
それが前提です。


しかし、あくまでもそのロジックは、〈利益の追求を使命とする企業活動〉における〈仕事〉についてのものです。
とはいえ、それだけが〈仕事〉と呼ぶものでしょうか。
わかりやすい例が、まだ仕事を覚えたて、あるいはこれから第一線に立ってバリバリとやろうとする若人でしょう。そこにおいては、知識の学習があり、技能の習得があり、感覚の練磨がありと、様々なものを学び鍛錬することもまた、〈仕事〉の範疇に入れるべきでしょう。

そこでは、常には重要な物差しであるはずの時間対効果を、そのまま当てはめるわけにはいきません。なんならばそれは、そもそも時間がかかるものであり、それ相応の時間を積み重ねなければ得るものも得られないからです。
であれば、そこに時間を費やすのを規制するという行為は、「そんなにがんばって仕事を覚えなくてもよいのだよ」と宣言しているに等しいのです。
言い換えればそれは、組織の未来へとつながる投資です。であれば、時間対効果や費用対効果という物差しではなく、別の基準で考えるのが筋というものでしょう。
ただでさえぼくたちの仕事である建設業は、それが技術であれ技能であれ、基本的に時間がかかるものなのです。

だからといって時間がかかってそれでよし、と言っているわけではありません。人より早く覚え、他者より早く習得することは、組織のなかの個人にとって大きなアドバンテージとなりますし、そうすることによって、その先もより多量でより多岐にわたる知識や技術を自分のものにする可能性が広がります。
また、自分ひとりの経験には限りがあるため、1は1でしかありませんが、既に先達が取得済みの経験や知識を学べば、1が2にも3にもなり、〈学習の高速化〉を図ることができます。
「時間がかかるもの」などと言って、それにあぐらをかいている人のその先は推して知るべしでしょう。

いやいや、だからこそデジタルテクノロジーではないか。と言われれば、まことにもって仰るとおりかもしれません。たしかに、IoTやAIといったあたらしいテクノロジーにその役割の一端を担わせて、時間を短縮するのはアリでしょうし、今という時代に生きて土木という仕事をしているのですから、その方策は探っていくべきだと思います。

かつて羽生善治は、ITとインターネットの進化によって、将棋が強くなるために必要なことを誰もが共有し学ぶことができる時代が訪れたことを「学習の高速道路が敷かれた」と表現しました。それは何も将棋の世界だけではなく、ビジネス、趣味、遊びなどなど人間がからむあらゆる分野に共通することとして、今という時代が成り立っています。
そこで羽生がもち出した「ITとインターネットの進化」は、たしかにその当時はそのものズバリをあらわしたのでしょうが、今となっては、羽生善治の〈学習の高速道路〉理論の要点をあらわした言葉となって、学習の高速化にデジタルテクノロジーが果たす役割を象徴しています。

しかし、それはあくまでも習得時間の短縮であり〈高速化〉です。ショートカットではありません。技術者の道にも職人の道にも、残念ながら〈近道〉はありません。ぼくが言う「基本的に時間がかかるもの」というのは、そういう意味であり、それを言い換えれば「時間をかけなければ得られないもの」となります。
たしかに過去との比較では、相対的な時間は縮んだ。しかし、技術の道にショートカットがない以上、一つひとつを積み重ねて学ぶという原理は変わることがない。これがぼくの認識です。

さて、従来その学習の時間には、たいがいの場合、現場の実務とは別の時間が割り当てられてきました。
もちろん、現場人にとって学習の基本はオン・ザ・ジョブ・トレーニングです。現場の仕事は現場での労働を通じて学習していくのが基本です。しかし、それだけでは足りません。自らをスキルアップさせるには、そうして身につけた技術や技能の裏づけとなる知識や理論を学習することも必要ですし、それをまた〈現場〉にフィードバックして互いを相乗補完させ高みにあげていくことが求められます。
その繰り返し、これが現場人の学習です。そしてそれらはすべて、〈労働〉としてカウントされなければならないとぼくは考えます。

とすれば、余暇の付与を手段として労働環境の改善を図った労働時間の規制は、同時に〈学習時間の損失〉によって技術者や技能者の成長を妨げる制度となってしまいます。もちろん、どのような場合でも個人差はあります。しかし、少なくとも、成長の度合いが遅くなるのは確実ではないでしょうか。

遅かれ早かれ70歳定年時代がやって来るでしょう。ぼく個人の感覚では、少なくともわが業界ではすぐそこまで来ています。そうなると、昭和の御代から比べると15年も延長されたことになります。それと比例するように老化が鈍化し(どちらが卵でどちらがニワトリか定かではありませんが)、健康ではたらける年代が高くなっています。そもそもその前に、少年→青年→壮年→老年という人間的成長の過程がどんどんと遅くなっています。
であれば、たとえ仕事における成長の度合いが遅くなったとしても、時代の流れとして致し方がないことなのではないか、という見方もできなくはありません。たとえ遅くなったとしても、成長していさえすれば、それはそれでけっこうなことです。

だとしても、ぼくは思うのです。〈働き方カイカク〉という美名のもとに、〈仕事としての学習時間〉を削ることは愚かなことだと。その結果招来されるのが、学ばず成長しようとしない人たちを生産しつづける未来だとしたら、自縄自縛になりはしないかと。

念のために再度申しあげておきますが、ぼくは長時間労働の推奨者ではありません。〈時は金なり〉、仕事においては、いつもこの理を念頭におき、時間を意識していることが必要だという考え方の持ち主です(それをもってぼくの現実を糾弾するのはやめてください。実際がどうかはまた別の話です)。ムダな残業とかダラダラの休日出勤などというものは、昔から嫌いでした。
しかし、若者や業界への新規就労者には、意識をして〈労働としての学習〉あるいは〈仕事としての学習時間〉を与えてやることが必要です。
それを埒の外において、やれ休め、やれ早く帰れ、と喧伝ばかりするのは、ちとピントがずれていると思うのですが、そういう己がそうなのですから、「先ず隗より始めよ」ではあるのです。

以上、以前からもやもやとしていた〈もうひとつの2024年問題〉を考えてみましたが、やはりぼくにとっては、ちょっと背筋が寒くなる話です。貴方は如何でしたでしょうか。

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