誰よりも「執着する人」であるわたしが、『執着しないこと』(アルボムッレ・スマナサーラ)を読む。
本人的には、なんの不思議もない。ないどころか、むしろ当然だ。「執着する人」だからこそ「執着しないこと」を目指すからである。
執着しないこと | |
アルボムッレ・スマナサーラ | |
中経出版 |
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肉料理を食べると、自分は幸福を感じる。それは、「肉」だからではありません。「好きなもの」「食べたいもの」を食べているからです。
ということは、菜食主義の友達も同じように、「好きなもの」「食べたいもの」を食べると幸福を感じるでしょう。なので、相手に喜んでもらうためには、「私が好きだから、あなたにも肉料理をご馳走する」ではなく、「あなたが食べたいものをご馳走します」となるのです。
そうした接待を受ければ、その友達は、「私のことをよく理解している。私が喜ぶことを理解している」と判断して、あなたにとってよい友達となってくれます。
あなたが他人からされたくないことは何ですか?それが発見できたら、自分に対しても、他人に対しても決して行わないことです。
一方で、あなたが他人にしてほしいと思うことは何ですか?それが見つかったら、率先して他人にしてあげることです。
(Kindleの位置517)
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このくだりを読むなりニンマリし、得たりとうなずくわたしは、知る人ぞ知る、『ジャガイモがごろごろ入ったカレーと三方良しの公共事業』理論(?)を日本で初めて提唱した人である(あとにつづく者の存在は不明ですが)。『ジャガイモがごろごろ入ったカレーと三方良しの公共事業』、要約するとこうだ。
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我が家のカレー料理担当は結婚以来ずっとわたしだ。そんなわたしはジャガイモが入ったカレーが好きではない。ひっきょう、わたしの作るカレーはジャガイモ抜きとなる。反面、我が女房殿はジャガイモを入れたカレーが好きである。だが、ジャガイモが入らないほうが断然イイと信じているわたしは、その必然としてジャガイモを入れない。
「ジャガイモを入れない」というその判断は、ただただ美味しいカレーを食わせたいという善意から出たものだが、あくまでその基準はつくる人たる自分であり、食べる人としての女房殿ではなかった。
あゝ、、、ときとして、善意の押しつけほどタチが悪いものはない。
食べる人に喜んでもらう。
そのことを第一に考えて行動する。
いわずもがな、カレーの話ではない。「三方良し」である。
「三方良し」は、けっしてツールなぞではない。理念であり考え方だとわたしは思っている。そしてその「考え方」の基本にあるのは「他助の精神」だ。「お客さん=住民」の利益を第一に考えることだ。「お客さん=住民」を喜ばせることを基本に考えて実行していれば、いろんな現場で立ち現れるモヤモヤとした情況を打開するすべは見つかるはずである。
さあ、久しぶりにジャガイモがゴロゴロ入ったカレーをつくってみようか。
おっといけない。あやうく過去と同じ轍を踏むところだった。「ジャガイモ」はあくまでも象徴ではないか。いつもいつでもジャガイモさえ出していれば彼女が喜ぶという、その考えがそもそも違うのだ。要は「食べたいもの」は何かである。
『ジャガイモがごろごろ入ったカレーと三方良しの公共事業』理論(?)を日本で初めて提唱した人、相も変わらず進歩がない。
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