答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

チームの種類(2)

2024年07月31日 | ちょっと考えたこと

答えは・・・そのうち見つかるのでしょうか、はてさて如何あいなりますやら。ぼくの場合、山々が産気づいても結局出てきたのはネズミ一匹、なんて例は枚挙にいとまがありません。ゆるゆると考えていくこととしましょう。

と、いかにも未来に期待を抱かせるような書きようで締めくくったきのう。その一助とすべく、試しにと『ぼけと利他』を開いて、くだんの箇所までページをめくってみると、なんと、そのあとにすぐ、一応の「答え」があったのです。あゝ、なんとしたことでしょうか。アホさ加減に嘆きつつ、きのう引用した最後の部分も含めて、ふたたび引いてみることにします。

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冒険には焚き火が必要ですが、生活は意志の力だけではどうにもなりません。生活において偉大なのはむしろ気分の力です。「こうしよう」と威勢のいいかけ声をかけるリーダーシップ、あるいは自分の中に持つ芯というものは案外もろい。村上さんは、表面こそ重要、と言います。服を脱いで無防備になった他人たちが、大地の奥底から湧いてきたお湯に身を沈め、数分もすれば肌もとろけてお互いが違いながらも似かよってくる。生活って確かにそういうものだなあと思います。
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いやいやオマエ、いくらなんでもそこに気づかなかったという話はないだろ?とお思いでしょうが、なぜだかぼくは肝心なその部分をスルーしていました。その程度の「読み」しかできないと思えば、まことに恥ずかしいかぎりですが、それが現実で真実ならば仕方のないところではあります。

繰り返しますが、企業(ビジネス)の論理と生活の論理は異なります。両者を同一視し、企業の論理を生活の場にもちこむことは危険であり、愚かなことでもあります。その逆に、生活の論理で企業活動を論じるのもまた、ちがうでしょう。

しかし、これも繰り返しになりますが、それらは厳然として区別することができないものでもあります。特に、企業にとって生活の論理がまったく必要のないものかというと、そうでもないでしょう。
そこでは、「おなじ湯につかっているうちに異なる互いが似かよってくる」という感覚も、あだや疎かにするようなものではないとぼくは思っています。「湯」を「空気」としても同じような気もしますが、ここでは「お湯」、しかも「温泉」です。当然そこに意味があるはずです。

ポイントとなっているのは温度でしょう。「大地から湧き出る湯」ならば、その温度は一定か、もしくはさほどの上下はありません。ある程度均一のもの(つまり同じもの)を異なるひとたちが共有しているというシチュエーションであるがゆえに「おなじ湯につかっているうちに異なる互いが似かよってくる」という現象が生じ得るわけです。
しかし、それが沸かしたものとなれば、ちょいと事情は異なってきます。湯の温度が自然と上がることは皆無です。反対に下がるのは必然です。温度は必ず下がる。「ぬるま湯」となり、やがて「水」となる。しかし、そこにずっと身を沈めている当人たちは、そのぬるさに気づきにくくなります。そしてそこに居着いてしまいます。

すると、とても重要だったはずのその共通認識や共感といったものが、マンネリを経由して堕落へと変貌します。生活の場にとってはそれもアリでしょう。それどころか、場合によっては偉大とさえ言えるのが生活の場におけるマンネリズムです。この本でも述べられているように、「慣れ」は「熟(な)れ」に通じます。そうなると、むしろ褒められるべきものだとしても差し支えなくなります。

「仕事」においても「慣れ」が「熟(な)れ」に昇華することはよくあります。熟練とは、まさにそういうことでしょう。「慣れ」という段階がないと「熟(な)れ」て「練り上げられた」域に達することはできません。
しかし、そうなるのはむしろ少数派です。「慣れ」から生じるものの多くは惰性に陥り、そこに居着いてしまいます。まことに悲しいことですけれど、人間というものはそういう習性をもっているのです。ですから、「慣れ」に堕することは、常に厳として戒められなければなりません。意識をしていなければ、そうなってしまうのが人間なのです。

話を「湯」に戻します。
そこでは、残念なことにぼくは「温泉」というシチュエーションが想像できません。ぼくのなかでは、そこにあるのは常に「沸かしたお湯」です。その温度は必ず下がる。ですから、「おなじ湯につかっているうちに異なる互いが似かよってくる」という状況を保とうとすれば、何かしらの人為的な関与が必須となる。「変わらずに生き残るためには変わらなければならない」です。
「だいたい同じ温度のお湯」から「同じ気分」が生まれ、それが「気分のちから」となるためには、飽かず倦まず、惰性に陥るのを拒絶する姿勢が必要です。

話はさらにさかのぼり、昨日の冒頭まで戻ります。
チームにはふたつの種類があります。

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ひとつ目は、みんなで火を囲んで同心円状に集まる「焚き火」タイプ。これは「意志」によって焚きつけられた集団で、お互いの顔が見えています。火の近くは熱いくらいですが、遠ざかるにつれて、徐々に熱は弱まっていきます。
もうひとつはみんなで同じお湯に浸かっている「温泉」タイプ。温泉に入ると他人同士無言で、お互い目が合わないようにしていたりもするけれど、お湯という同じ「気分」には浸かっています。お湯に入っていさえすれば、温度はどこもだいたい同じです。
冒険には焚き火が必要ですが、生活は意志の力だけではどうにもなりません。生活において偉大なのはむしろ気分の力です。
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どうやらこの異なるふたつは、どちらが正しくてどちらがまちがっているという類の区分ではないようです。おなじ組織に「焚き火」タイプと「温泉」タイプが共存し、その場そのときに応じて、たとえば日常の平常運転には「温泉」、緊急応急の修羅場には「焚き火」というように、どちらを表に出した方がよりよい結果を生み出すのかを判断しながら使い分けていくのが適切なのかもしれません。
それができるかどうかは、また別の話ではあるのですけれど。






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