答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

認めて許せ

2024年07月27日 | ちょっと考えたこと

ある日の朝餉でのことです。箸立てから自分のものをとろうとしたとき、「ん?どっちだ?」とアタマをひねったのは、そこにいつものぼくの箸と似た色のものが隣り合わせていたからでした。念のためにと、ひと揃えずつを合わせ、確かめてから席につき、おもむろに味噌汁をすすります。
なんとしたことでしょう。
口に入れた途端、念を入れて揃えたはずのその箸が、ちがう組み合わせだったことに気づきます。しかも、よく見ると似た色だと思っていたそれは、ただ暗色だということだけが同じで、柄もちがうしサイズもちがう。どこからどう見れば似ていると思えるのか、不思議にさえ感じるほど異なった物なのでした。

あいやこりゃまたどうしたことかと、あまりのバカさ加減に思わず吹き出しそうになったぼくは、そんな恥ずかしいことはゼッタイ妻に悟られてはならないと、笑いをこらえて朝食を食べ終わりました。
ほっ。どうやら気づかれなかったようです。

二十分ほど経ったでしょうか。歯を磨いていたぼくに、

「ちょっとぉ・・・何よこれ」

爆笑しながら彼女が呼びかけてきました。
手には件の不揃いの箸たちが握られています。
ぼくの口には歯ブラシ。当然、口のなかは歯磨き粉の泡だらけです。
しかし、答えないわけにはいきません。

「ホウホウ(そうそう)・・」

「笑」

「ヒカモ(しかも)ホウヤッテ(こうやって)ホロエテ(そろえて)」

「笑」

「ハヒハメテ(たしかめて)」

「大笑」

「ホエヤオイヨ(それやなのによ)ハヒガエハ(まちがえた)」

「爆笑」

(左手の人差し指をこめかみに突き刺してグリグリとするぼく)
「ホケヒヒイ(ぼけじじい)」

「大爆笑」


まったく、情けない爺さんです。こういうのを箸にも棒にもかからない、というのでしょう。
しかし、そう思う反面、涙を流さんばかりに笑う妻を見ながら、しかしこういうのっていいよなぁとぼくは思ったのです。
近ごろよく、「だいじょうぶかしら」と真剣な顔をして妻が言います。自分自身に対してです。たとえば物忘れがひどい。たとえばボケたことを言ったりしたりする。もちろん、自身に対してだけではなく、ぼくの言動に対しての「だいじょうぶ?」もあります。
それはしかし、彼女だけではありません。ぼくもまたそうであり、なんならばぼくの方がひどいことも多々ある。そして彼女に対して「だいじょうぶか?」と感じることもある。どちらがどうではなく、まさにおボケの互いさま状態になっているぼくたち夫婦なのです。

だからぼくは、自分の失敗を棚に上げ「いいなぁ」と思ったのです。こうやって互いのボケを笑い合う。これぞ理想じゃないかと。たぶん現実は、そのようにのほほんとした空気のなかで流れてはいかず、もっとギスギスして互いをののしり合うこともあるのでしょう。しかし、ボケ(のようなもの)に起因するその失敗を責めず、そのようなものなのだと生きていく。たぶんそんな大げさなことではなく、単なる失敗にすぎないことなのでしょうが、「いいなぁ」と思ったのです。

ボケる。漢字で書くと「呆ける」。「呆」という字は、阿呆の呆、つまり、「愚か」や「間が抜けている」という意味ですが、そればかりではなく、「ぼうぜんとする」「ぼんやりとする」「あきれる」というような意味もあります。阿呆の呆にはマイナスイメージがつきまといますが、呆然としたりボンヤリとしたり呆れたりするのは、誰にでもあることであり、必ずしも悪いとはかぎりません。

ボケるに「惚ける」という字を当てはめれば、「頭のはたらきや知覚が鈍くなる」「もうろくする」という、老齢とともに増してくる、いわゆるボケにより近くなり、今日ぼくが言うところのボケもまたそれなのですが、それとて今という時代の巷間でよく言われるように、すべてが病的なものばかりといえばそうではないでしょう。

そうそう、今朝の新聞にこんな本の広告が載っていました。
『老けないテレビの見方、ボケない新聞の読み方』。
タイトルの横には、「認知症は脳の生活習慣病!」「簡単に始められる予防習慣があった!」「認知症を先送りさせる前頭葉刺激習慣のすすめ」などの文字が踊っています。
アンチエイジング全盛の世の中です。そういうぼくも、シミ防止のクリームを買い与えられて朝晩塗っている毎日ですから、「歳を取りたくない」という気持ちは痛いほどよくわかります。しかし、「老けない」高齢者はいない。と同時に、「ボケない」年寄りもいない。

つまり、人は誰でも大なり小なりボケる。大人が理解することができない泣き声をあげるのが赤児であるように、すべての年寄りは大なり小なりボケるのです。

といっても、十年前のぼくはまったくそれに気づいておらず、当事者に足を踏み入れかけた今、ようやっとその理がわかりかけてきたのですから、エラそうなことを言えたものではありません。
しかし、それに気づいてきたのなら、そうなりつつある自分や妻を悲観をしていてもなんともなりません。

己のボケを箸にも棒にもかからないと悲観せず、認めて許す。そして笑う。
口で言うほどかんたんなものではないのでしょうけど、そうありたいと思う今日このごろなのです。


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