答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

ハゲにシャンプーブラシ ~無意味のなかの意味~

2024年08月13日 | ちょっと考えたこと

猫に小判を与えても、その価値がわからないので何の意味もありません。ですから、どんなによいものでも、その値打ちがわからない者にとっては無価値であるということをたとえて、「猫に小判」と言います。
と、いかにもと勿体をつけて書かずとも、日本語を話せる大人ならば、それぐらいのことはほとんどの人が承知していることでしょう。
さて、古今東西これに類する言葉は、主体となる動物を変えていくつもありますが、皆さんはどのくらい言えるでしょうか。

豚に真珠
犬に論語
馬の耳に念仏
牛に麝香(じゃこう)
兎に祭文

そんなことを考えていたのは昨夜、日付が変わる少し前のことです。
夕方から、中学校の同窓会がありました。5年に一度会おうと決めている会なのですが、ご多分に漏れないコロナ禍で65歳の年の開催を断念。おまけにぼくは、その前の会に参加することが叶わず、12年ぶりとなる懐かしい顔たちとの再会でした。

途中、全員にもれなく景品があるので、くじを引けという幹事の言葉にうながされ、ぼくが当たったのはシャンプーブラシ。浅学にして、そのようなものがあるということは知らなかったのですが、それが自分にとってまったく無用のものであるらしいことだけは理解できます。そしてそれがぼくにとっては上物のネタであることも。それを瞬時に悟った脳は、これを利用しない手はないとばかりに反応し、ぼくにおけるアタマと顔の境界とシャンプーとフェイスソープの使い分けについてひとしきり述べ、満座の同窓生を沸かせたものでした。

それから数時間が経ち、宴の余韻をかみしめるぼくの眼前には、初めて目にするその物体が鎮座していました。
そのときです。冒頭の言葉たちが浮かんでは消え、消えては浮かびしたのは。

猫に小判、豚に真珠、・・・・ぼくとシャンプーブラシ。ここで、チト意味が異なることに気づきました。前者の主体となる動物たちが、その物の価値を理解しないのに対して、ぼくはシャンプーブラシの値打ちが十分にわかります。しかし、それを実現しようとしても、ぼくには肝心要の毛がない。この点において、猫や豚や犬や馬や兎とぼくのあいだには、決定的な差異があります。

人生には無数のムダがあります。ぼくにとってのシャンプーブラシもそのひとつかもしれません。しかし、ムダがすなわち無意味であると、一概に断じることはできません。一見すると、ぼくのツルツルのアタマには役に立たないように見えるこのブラシが無意味であるという心理が、その本来的な用途だけに限定したものの見方から来ていることはあきらかです。

深夜、左の手でスキンヘッドをなでながら、右の手でブラシをもてあそび、ぼくの思考はつづきます。
毛がないぼくに、たまさか与えられたシャンプーブラシ。これを意味がないととらえるかどうか。そこにあたらしい価値を見出すことができるかどうか。そこにぼくがこの偶然を必然にできるかどうかがかかっているのではないだろうか。
そして、この邂逅とそれを与えてくれた同窓生に感謝しつつ、こう独りごちるのでした。

ハゲにシャンプーブラシ。無意味のなかの意味。この出会い、仇や疎かにしてはなりませぬぞ、と。







いかにも「みやうちっぽく」書いてみたのですけど、ご笑覧いただけたでしょうか?
あくまでも、自分で自分をパロってみたにすぎない駄文ですので、ふむふむと意味ありげにうなずいたりはせぬように。

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