散日拾遺

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父の日の発見

2020-06-21 18:24:07 | 日記
2020年6月21日(日)
 父子間の葛藤は欧米文学の縦糸とも言うべきもので、この縦糸なくしては、とりわけ長編小説の名作はほとんど存在し得なかった。それもそのはずで、ヨーロッパ文化の二大源泉とされるギリシア神話と旧新約聖書のいずれもが、重すぎるほどの父子葛藤を根源に抱えている。
 以上は持論というほどのものではなく、昔からくり返し指摘されてきたことに違いない。
 ところが、ここに大きな例外があった。他ならぬトルストイである。読み終えたばかりの『アンナ・カレーニナ』、以前に読んだ『戦争と平和』あるいは『復活』、男女間の水平的な葛藤の厳しさは、さながら深淵を覗き込むようであるけれども、親子間のそれはほぼ全く見あたらない。個別の軋轢のあるなしではなく、作品を貫くモチーフとしておよそ注目されていないのである。
 この点、常に対比されるドストエフスキーの方は、大著『カラマーゾフの兄弟』が父親殺しをテーマとするのを初めとして、至るところに父子葛藤を見る。というより、それなくして彼の全体が成立せず、『ドストエフスキーと父親殺し』をフロイトがものした所以である。

 これは両者のキリスト教信仰のあり方とも照応することで、ドスエフスキーは「神秘主義」の語を冠せられるほどに、宗教の秘儀への没入を重んじた。二人殺しのラスコーリニコフにして、「ラザロの復活を信じるか」との予審判事ポルフィリー・ペトロビッチの問に対し、「文字通り信じる」と答えてはばからない。
 対するトルストイは、福音書の告げる物語の中から非科学的な要素をすべて剥ぎ取り、ただ倫理的なメッセージだけを酌み取って栄養としたことが窺われ、この方が19世紀のベクトルに適合的ではあったのだ。(アメリカ独立の立役者ジェファソンが、同様に合理的なエッセンスのみを抽出した私用の「聖書」を編んでいたと聞いたことがあり、18世紀の啓蒙主義に遡る話かもしれない。)
 父子葛藤はキリスト教の神秘的な側面の深い淵源であり、とりわけ「非合理的なるがゆえに信ずる」(Credo quia absurdum ー テルトゥリアヌス Quintus Septimius Florens Tertullianus, 160年? - 220年?)型の信仰と、切っても切れない関係にあるように思われる。

 とはいえ、このモチーフと離れても本格的な長編小説が成立し得ること、考えてもみなかったが実はこうした強力な例証が存在するのだった。
 父の日のささやかな発見。

Ω
 



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