2019年4月5日(金)
たまきはる 宇智の大野に馬並めて 朝踏ますらむその草深野
(たまきはる うちのおおぬに うまなめて あさふますらむ そのくさふかぬ)
[巻1・4]
茂吉が万葉秀歌の筆頭に選んだのがこれで、作者について詳しく考量の上、舒明天皇の皇女(孝徳天皇の后である間人(はしびと)皇后)または皇后(後の皇極/斉明天皇)と結論し、いずれにしても「天皇のうえをおもいたもうて、その遊猟の有様に聯想し、それを祝福するお心持ちが一首の響きに浸透」していると評す。
のみならず、「豊腴(ゆ)にして荘潔、些かの渋滞なくその歌調を完うして、日本古語の優秀な特色が隈なくこの一首に出ているとおもわれるほど」と、手放しの絶賛である。
これは反歌で、長歌は直前[1・3]の下記。
やすみしし吾大王の、朝にはとり撫でたまひ、夕べにはい倚い立たしし、御執らしの梓弓の、長弭(はず)の音すなり、朝猟(かり)に今立たすらし、暮猟(ゆふかり)に今立たすらし、御執らしの梓弓の、長弭(はず)の音すなり
こういうのを流動声調というらしい。なるほど春の海ののどかな波の、寄せては返す律動が聞こえてくる。
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茂吉先生は短歌のみを選ぶ方針を採用したので致し方ないが、スキップされた[1・1]は「籠もよ・み籠持ち」、[1・2]は「大和には・群山あれど」で、いずれも捨てがたい名歌であることを僕でも知ってる。
とりわけ前者:
籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそませ 我こそは 告らめ 家をも名をも
作者は大泊瀬稚武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)、すなわち第21代雄略天皇である。中国の史書に「倭王・武」として登場する雄略帝、軍略の王と受けとめているが万葉にはこの帝への敬意がとりわけ顕著であること、どこかで茂吉が指摘している。
それにしてもおおらかな呼びかけ、娘は何と答えたのだろう、天皇の権威をもって住所だの名だのを聞きただしたらパワハラ・セクハラで、そんな野暮はすまいと思うが娘さん御用心、この帝は女性関係ではとんでもないヘマをやらかしている。古事記・雄略天皇記から私訳で紹介する。意訳誤訳は御勘弁。
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ある時、雄略帝が遊行あそばされた時、美和河のほとりで衣を洗う娘を見かけた。その容姿が端麗であったので、帝が素性を尋ねると、娘は「引田部(ひけたべ)の赤猪子(あかゐこ)と申します」と答えた。帝は「そなたは嫁ぐことなく待っていよ、いずれ吾が許へ召すであろう」とおおせのうえ、宮へ戻られた。赤猪子はお言葉を頼みに嫁ぐことなく待ち続けたが、音沙汰のないままに80年が過ぎた。
すっかり老いさらばえ今さら嫁ぐ先もないが、待ち続けた心を一言伝えずには死んでも死にきれない。そこでおびただしい輿入れの品を整え[註]、帝のもとに参上した。帝の方はすっかり忘れていて、「そなたはどこの老女か、これは何ごとか?」と尋ねた。赤猪子は「いついつの年これこれの月、帝よりお言葉を賜りお召しを待つうちに80年が経ちました。今は老いさらばえ、嫁ぐ先もありませんが、せめて私めの心をお伝えしようと参上しました」と答えた。
雄略帝はひどく驚き、「そのこと、すっかり忘れていた。然るにそなたの方は志を守り、わが召しを待って女盛りを過ごしてしまったこと、いたわしくけなげである」と答えた。約束通り娶りたいと内心に思ったものの、すっかり老いたその姿が憚られて決断できず、代わりに御歌を賜った。
御諸の 厳白檮(いつかし)がもと 白檮がもと ゆゆしきかも 白檮原童女(かしはらをとめ)
引田(ひけた)の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも
赤猪子の流す涙が、その丹摺(にずり)の袖をしとどに濡らした。
御諸に つくや玉垣 つき餘し 誰にかも依らむ 神の宮人
日下江の 入江の蓮(はちす) 花蓮 身の盛り人 羨(とも)しきろかも
帝は、多くの贈り物を赤猪子に与えて帰した。
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註の部分、上代では求婚の際に男性から女性に贈り物があり、これにこたえて女性側が「机代物」と呼ばれる答礼をしたと思われ、これが持参財 ー 嫁入り道具 ー の意味をもったらしい。そうした「机代物」が『古事記』の三箇所に登場する(邇邇芸命と木花開耶姫、火遠理命と豊玉毘沙賣命、それに本件)と下記に解説あり。
http://bimikyushin.com/chapter_4/04_ref/momo.html
他の二例はいずれもめでたく成婚に至り、そのしるしとして「机代物」が言及される。求婚の挨拶ではなく、求婚への答礼であることに注意したい。「机代物」を持参のうえ朝廷に乗りこんだ赤猪子は、為した約束の履行を捨て身で雄略帝に求めているのである。そこに80年の思いの丈のすべてがこもる。
80年も経つ間には、待たせた雄略帝の方もさだめしお年を召されたことと思われるが、帝の側の老残ぶりに『古事記』は言及しない。そのことを含め、最初にこの条を読んだときには可笑しみを感じたものだったが、今はとても可笑しくなど感じられず、ひたすらに胸の痛むばかりである。こちらが歳をとったのか。
赤猪子に詰め寄られた雄略帝が、「心の裏(うち)に婚(まぐは)ひせむと欲(おも)ほししに、その極めて老いしを憚りて、婚ひを得なしたまはず」とあることがかすかに引っかかる。それが筋目と知りながらも「心の裏にその極めて老いしを憚」ったのではない、「心の裏に婚ひせむと欲ほし」ながら果たし得なかったところである。
何にしても、み籠もちの娘さん、うかと家や名を教えるものではないよ。80年を棒に振ることになりかねないからね。
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