2018年8月9日(木)
翁長雄志(おなが・たけし)さんが昨8日亡くなった。屋良朝苗(やら・ちょうびょう)さんから数えて7代目の沖縄県知事、喪もそこそこに次を語るのは不謹慎なようでも政治空白を作ることはできず、9月にも県知事選が行われる見通し。
下記、引用する。
「翁長さんの後を襲って県知事に立候補される方は、沖縄の人々の心の痛みを分かる方であって欲しい。
亡くなられた翁長さんは自民党の沖縄県連幹事長まで務められた方だから、沖縄県では元々保守本流に位置付けられていたはずである。その翁長さんが辺野古基地建設反対運動の先頭に立たざるを得なかった、ということに深い理解がある方に、沖縄県の知事に就任していただきたいものである。そうでなければ翁長さんは救われないだろうし、多分、沖縄県の方々も救われない。
翁長さんが辺野古基地建設反対派に宗旨替えをした理由をアゴラの編集長が解説しておられた。
「本土の人たちは冷たい、沖縄のことなどちっとも理解してくれない。民主党も、自民党も。」
翁長さんは、そう思われて、自ら辺野古基地建設反対派の先頭に立たれるようになったようである。沖縄の方々に、こういったやるせない失望感を抱かせないようにすることが出来るかどうか。
そう簡単なことではないが、何とかしなければならないはずだ。沖縄や沖縄の方々の心情に理解がある方がこの難しい問題を取り扱われるようになれば、ひょっとしたら道は拓けるかも知れない。
たとえ、最後の結論は変わらなくても・・。」
(早川忠孝 http://blogos.com/article/316972/)
広島と長崎に挟まれたこの日に他界されたのも、人柄に似つかわしく思われる。67歳の若さで逝った原因は膵臓癌と伝えられた。「癌は治る病気になりました」とT先生などは胸を張るが、すべての癌が治るわけではない。2ヶ月前に高校の同級生が急逝したのも同じ原因だった。命脈尽きる直前まで活発に活動していた点も同じで、これがこの病気の特性と見える。認知症を伴う高齢者の終焉などとはまた違ったことが問われているだろう。
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朝夕の時間帯を選んで草刈りなどするのだが、低い日差し、とりわけ烈々たる朝日が横顔を直射する勢いはものすごく、あえて日の高い日中に作業する姿があるのはこのゆえかと納得する。
朝、屋敷前の畑地の草を刈っていると、新宅の叔父、詳しくは父のいとこのSおじさんが、通りすがりの自転車を止めて声をかけてこられた。
「用事があるんはな、いま見て来たんじゃけんど、」
小高い丘の上にあるの墓地、そこにイノシシが出たらしいというのである。イノシシのこの一帯への出没自体は周知のことで、サツマイモを荒らされることが時々あるのだが、墓所に何の用があったのか?
「甚五郎さんのお墓があろう、あの周りを掘り返しよった。」
石丸甚五郎は僕の4代前で、村の馬医(ばい)さん、今で言えば獣医さんを兼ねた土地の顔役であった。よく調べていないが、峰三郎曾祖父が1860年代の生まれのはずだから、さらに遡って1830-40年代の生まれ、幕末から明治維新の大変革の時代を生きた人ということになる。Sおじさんと自分との共通の先祖でもあるのだと思ったら、何やら妙な気がした。
さっそく急坂を上がって検分してみると、なるほどこいつはなかなかの狼藉 ~ 猪藉?ぶりである。 ![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/17/2766b8ce1822cc395766102fa9a801f5.jpg)
写真がヘタクソでわかりにくいが、中央の斜面はもともと一面の雑草で覆われていたと言えば、見た者の驚きが伝わるだろうか。イノシシ君だかイノシシさんだかは土をはがすようにして雑草を喰らい ~ 餌になるものかどうか分からないし、そんなものなら雑木林にいくらでもありそうだが、抜かれた草が見あたらないのは食べたと解するほかない ~ 旨い芋などないので「ちっ」とか舌打ち一つ残して引き上げていったのであろう・・・か。
甚五郎さんの後を継いだ峰三郎さん以降は20mほど離れた別の地面に父が墓碑などを設け、こちらは無傷である。石とコンクリで固められていない古い代のものが狙われた形だが、さてどうしたもんじゃろうのう・・・
「夏があんまり暑いけん、イノシシも山に餌が少のうて出て来よるんよのう。」
杖ついてお墓参りのオイサンが、気の毒そうに声をかけていんだ、じゃない、いった。
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夕方、日が翳るのを待って草刈りの続きをしていたら、原付を前の道路に駐めて降り立ったYシャツ姿の老紳士があり、近づきながらゆっくりお辞儀をなさった。草刈り機のエンジンを止めてお辞儀を返すと、穏やかだが怜悧な瞳でしばらく見つめておいでる。
「せがれです。草を刈りに戻りまして。」
「ははあ、お父さんにしては、少しお姿が若いと思いました。御本をいただきながら御礼もしませんで。」
実は相手がどなただったか思い出せない。会ったことはないのかもしれない。「本」というのは放送大学の印刷教材を父が贈呈したものだろうが、さてどれのことだかこちらも分からず、本についてはおあいこだが言葉の端に明敏が響く。
隣の畑でブルーベリーなんか摘んでいる次男を呼び寄せて「国語の教師」と紹介したら「おお、それは」と喜びの表現、御自身も高校で古文・漢文を教えていらしたという。日中国交回復後まもない1975年頃、この領域では最初の文化交流に加わって訪中して漢文の舞台をつぶさに見学したこと、1986年頃には周恩来の提案で設立されていた北京第二外国語大学に滞在したことなど、思いがけず貴重な話が草刈り機越しに語られた。
M浦さんは500mほど向こうの公民館脇にお住まいで、日頃は北条の詩吟の会でリーダー格を勤め、御自身でも漢詩を作るという。松山の正岡子規研究会にも加わっておられるそうだ。「そう言えばM浦さんは正岡あたりの人じゃ」と夕食時に父。正岡という地名が僕らの近所に存在するのだ。ただし、子規は現在の松山市内の生まれであり、彼が父親から受け継いだ正岡姓と地名との関連ははっきりしない。
「いい出会いでした。またお目にかかりましょう。」
原付の後ろ姿を見送りながら、心中に弾むものがあった。「10年もしたらこのあたりはゴーストタウン」と昨夜父が言い切ったばかりである。ただ廃村化する一途だとしたら、そんなところへわざわざ帰ってくる物好きはいない。しかし少しだけ目をこらせば、東京にないものがあり、東京にいない人がいるといったことは、いくらでも見つかるはずなのである。
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