散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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地元びいき

2018-08-14 12:09:29 | 日記

2018年8月12日(日)

 安息日というものが人には必要である。旅とは違う、バカンスの意義でもある。長い帰省自体がバカンスであるとはいえ、あれもせねばこれもせねばが自ずと生じ、その期間の中で安息日を分節しないとやっぱりもたない。その間にもメールで仕事が次々に入り、盆の最中に〆切を設けることも既に非常識ではないらしい。メリハリつけて休まなければ普通の人間はつぶれるが、メリハリつけるのも自己責任で世間も雇い主も援助してはくれない。「すみませんが、お盆は仕事しないことに決めてるので」と今では個人の信念の問題である。

 帰京した次男と入れ替わりに、関西の長男が土日のトンボ返りでやってきた。下りの「しおかぜ」が満席で、途中まで立ったという。のどかで良い路線だが瀬戸大橋では自動車道の下に囲い込まれ、眺めがいまひとつなのが残念なところ。草刈り機を使ったり、アルメニアのブランデーと伊豫の栗焼酎で酔っ払ったりし、21時間ほどの滞在で帰って行った。

 その午後の甲子園、2回戦で済美が星稜と当たった。「みんな頑張れ」の高校野球だが、地元チームを応援するのばかりは話が別である。それだけに初回5点取られ、1点返したものの1-7と差が開いた時にはTVを消そうかと思った。しかし選手はあきらめてなどいなかった。

 8回裏に8点取って9-7と逆転、9回表に追いつかれ、タイブレークの13回表に2点先行されたものの、その裏に大会史上初の逆転サヨナラ満塁ホームランで決着。8回裏の逆転スリーランを含め4打数4安打の政吉、決勝ホームランの矢野、みんな頑張ったがとりわけ山口直哉の184球完投が立派だった。8回にデッドボールを脚に当てられて案じたものの、その後かえって力が抜け冴えたかのようである。

 両チームとも御苦労様、良い試合をありがとう。十分体を休めてください!

 

 ※13日(月)は新聞休刊日、14日(火)満を持しての愛媛新聞朝刊一面がこれ。打者矢野、投手寺沢、捕手山瀬、球審鈴木。なお、1996年の78回大会決勝で「奇跡のバックホーム」を投げたのも右翼手の矢野だった。矢野姓は松山周辺に多いのである。

Ω


どっこい蜂はいつもいる/蝉とコオロギとひと味違う蛙の合唱

2018-08-12 11:45:29 | 日記

2018年8月11日(土)

 今年は例年に比べて蜂・虻や蚊が少ない、降雨がないのでボウフラの湧く場所ができにくいのは分かるとして、蜂が少ないのはどうしてかなどと話していたら、夕方こんなのを見つけた。それが合図になったかのように翌朝にかけて2つ3つと見つかり、決して少なくはなかったようである。

 アシナガバチはアゲハチョウなどの幼虫を肉団子にして食べるのが主たる栄養源で、給餌を受けた幼虫が口から吐く糖分に富んだ液体が、逆にハタラキバチを養うという面白い方式をとっている。このことからしても、水不足の影響をダイレクトに受けることはあまりなさそうだ。庭の様子を見ていると巣はまだまだありそうに思われる。息子たちも次第にコツを覚え、「あの辺に巣があるのじゃないか」「この木が怪しい」などと庭歩き後の目撃情報を寄せてくるようになった。

 音についていえば、日中の庭はもちろん蝉の天下である。名指すことができないのが悔しいが、種類はずいぶん多い。夕暮れとともにそれが鳴く虫系に交代し、これも多彩で情けないほど区別がつかない。ちょうどその移行帯、薄暮から夜になっていくあたりが蛙の時間帯である。この間、非常に神秘的な感じにつつまれるのは理由がある。

 蝉やコオロギは自宅の庭で鳴くが、蛙は外の田んぼで鳴く。当然、声は外から聞こえ、しかも田んぼはの境を越えて海辺まで拡がっている。平野一帯に生息する数限りもない蛙の大合唱が、あたりの山々に反響しながら高大な黄昏の空に吸い込まれていくのである。

 「無窮」という言葉の思い浮かぶ、宇宙的な時間帯である。

Ω


トカゲにアゲハ、空の青さに「帰ってきます」

2018-08-11 14:06:15 | 日記

2018年8月10日(金)

 軒下に置いてある草刈り機に手をかけると、決まって小さな黒いトカゲが飛び出してくる。すっ飛んで逃げるという表現がぴったりの慌てようで、飛び出したとみるや物陰に姿を消してしまい、写真を撮る暇などまったく与えてくれない。このあたりをねぐらにしているのか、どうもお騒がせして申し訳ないことである。

 トカゲは爬虫類の例に漏れず気味悪がられることの多いものだが、日本の領土内に住むトカゲはいずれも小型でしなやか、至って臆病である。人間に害はなく、小昆虫を補食するから益獣といってもよい。先ほどの黒いのはまだ子どもだろうか、成長後は種によって虹色の金属光沢があったり、落ち着いた土色だったり、それぞれの意匠で装っている。夕食時にガラス窓の外側で、室内照明の余光を頼みに餌を待つヤモリもトカゲのイトコ筋、いずれもこの屋の同居人といった気分で親しみ深い。

 離れ地の草むらでは、例によってアゲハチョウがひらひら飛んでいる。甘夏や八朔など蜜柑類が植えてあり、アゲハチョウには格好の産卵場なのだ。幼虫の食欲はすさまじく、こちらは明確に害虫の扱いだがムキになって駆除するほどの話ではないし、そもそも農薬不使用が大原則である。

 空が青い。

 当たり前の青空にありふれた白雲が散在するだけの眺めだが、空の青がはっとするほどくっきり鮮やかなのである。

 午後はいつも通り、ヘルパーのYさんが来てくれた。5人のお子さんが一斉に夏休みでさぞ忙しいだろうに、様子はいつもと変わらない。息子さん2人とその友達を1人連れてきて、仕事のあいだ前の川で遊ばせている。

 仕事が終わって帰りがけには、いつも通り「それじゃ、帰ってきます」と明るく挨拶された。

 「行ってきます」は全国どこでも同じだが、「帰ってきます」はここでしか聞かない。「帰ります」と違ってまた来ることを前提とした表現で、「さようなら」が "Leben Sie Wohl" ならこちらは "Auf Wiedersehn"、とても可愛らしく愛嬌に溢れている。

Ω

 

 

 


イノシシが出たんじゃと/古典教師のM浦さん

2018-08-10 11:18:09 | 日記

2018年8月9日(木)

 翁長雄志(おなが・たけし)さんが昨8日亡くなった。屋良朝苗(やら・ちょうびょう)さんから数えて7代目の沖縄県知事、喪もそこそこに次を語るのは不謹慎なようでも政治空白を作ることはできず、9月にも県知事選が行われる見通し。

 下記、引用する。

 「翁長さんの後を襲って県知事に立候補される方は、沖縄の人々の心の痛みを分かる方であって欲しい。

 亡くなられた翁長さんは自民党の沖縄県連幹事長まで務められた方だから、沖縄県では元々保守本流に位置付けられていたはずである。その翁長さんが辺野古基地建設反対運動の先頭に立たざるを得なかった、ということに深い理解がある方に、沖縄県の知事に就任していただきたいものである。そうでなければ翁長さんは救われないだろうし、多分、沖縄県の方々も救われない。

 翁長さんが辺野古基地建設反対派に宗旨替えをした理由をアゴラの編集長が解説しておられた。

 「本土の人たちは冷たい、沖縄のことなどちっとも理解してくれない。民主党も、自民党も。」

 翁長さんは、そう思われて、自ら辺野古基地建設反対派の先頭に立たれるようになったようである。沖縄の方々に、こういったやるせない失望感を抱かせないようにすることが出来るかどうか。

 そう簡単なことではないが、何とかしなければならないはずだ。沖縄や沖縄の方々の心情に理解がある方がこの難しい問題を取り扱われるようになれば、ひょっとしたら道は拓けるかも知れない。

 たとえ、最後の結論は変わらなくても・・。」

(早川忠孝 http://blogos.com/article/316972/)

 広島と長崎に挟まれたこの日に他界されたのも、人柄に似つかわしく思われる。67歳の若さで逝った原因は膵臓癌と伝えられた。「癌は治る病気になりました」とT先生などは胸を張るが、すべての癌が治るわけではない。2ヶ月前に高校の同級生が急逝したのも同じ原因だった。命脈尽きる直前まで活発に活動していた点も同じで、これがこの病気の特性と見える。認知症を伴う高齢者の終焉などとはまた違ったことが問われているだろう。

***

 朝夕の時間帯を選んで草刈りなどするのだが、低い日差し、とりわけ烈々たる朝日が横顔を直射する勢いはものすごく、あえて日の高い日中に作業する姿があるのはこのゆえかと納得する。

 朝、屋敷前の畑地の草を刈っていると、新宅の叔父、詳しくは父のいとこのSおじさんが、通りすがりの自転車を止めて声をかけてこられた。

 「用事があるんはな、いま見て来たんじゃけんど、」

 小高い丘の上にあるの墓地、そこにイノシシが出たらしいというのである。イノシシのこの一帯への出没自体は周知のことで、サツマイモを荒らされることが時々あるのだが、墓所に何の用があったのか?

 「甚五郎さんのお墓があろう、あの周りを掘り返しよった。」

 石丸甚五郎は僕の4代前で、村の馬医(ばい)さん、今で言えば獣医さんを兼ねた土地の顔役であった。よく調べていないが、峰三郎曾祖父が1860年代の生まれのはずだから、さらに遡って1830-40年代の生まれ、幕末から明治維新の大変革の時代を生きた人ということになる。Sおじさんと自分との共通の先祖でもあるのだと思ったら、何やら妙な気がした。

 さっそく急坂を上がって検分してみると、なるほどこいつはなかなかの狼藉 ~ 猪藉?ぶりである。 

 写真がヘタクソでわかりにくいが、中央の斜面はもともと一面の雑草で覆われていたと言えば、見た者の驚きが伝わるだろうか。イノシシ君だかイノシシさんだかは土をはがすようにして雑草を喰らい ~ 餌になるものかどうか分からないし、そんなものなら雑木林にいくらでもありそうだが、抜かれた草が見あたらないのは食べたと解するほかない ~ 旨い芋などないので「ちっ」とか舌打ち一つ残して引き上げていったのであろう・・・か。

 甚五郎さんの後を継いだ峰三郎さん以降は20mほど離れた別の地面に父が墓碑などを設け、こちらは無傷である。石とコンクリで固められていない古い代のものが狙われた形だが、さてどうしたもんじゃろうのう・・・

 「夏があんまり暑いけん、イノシシも山に餌が少のうて出て来よるんよのう。」

 杖ついてお墓参りのオイサンが、気の毒そうに声をかけていんだ、じゃない、いった。

***

 夕方、日が翳るのを待って草刈りの続きをしていたら、原付を前の道路に駐めて降り立ったYシャツ姿の老紳士があり、近づきながらゆっくりお辞儀をなさった。草刈り機のエンジンを止めてお辞儀を返すと、穏やかだが怜悧な瞳でしばらく見つめておいでる。

 「せがれです。草を刈りに戻りまして。」

 「ははあ、お父さんにしては、少しお姿が若いと思いました。御本をいただきながら御礼もしませんで。」

 実は相手がどなただったか思い出せない。会ったことはないのかもしれない。「本」というのは放送大学の印刷教材を父が贈呈したものだろうが、さてどれのことだかこちらも分からず、本についてはおあいこだが言葉の端に明敏が響く。

 隣の畑でブルーベリーなんか摘んでいる次男を呼び寄せて「国語の教師」と紹介したら「おお、それは」と喜びの表現、御自身も高校で古文・漢文を教えていらしたという。日中国交回復後まもない1975年頃、この領域では最初の文化交流に加わって訪中して漢文の舞台をつぶさに見学したこと、1986年頃には周恩来の提案で設立されていた北京第二外国語大学に滞在したことなど、思いがけず貴重な話が草刈り機越しに語られた。

 M浦さんは500mほど向こうの公民館脇にお住まいで、日頃は北条の詩吟の会でリーダー格を勤め、御自身でも漢詩を作るという。松山の正岡子規研究会にも加わっておられるそうだ。「そう言えばM浦さんは正岡あたりの人じゃ」と夕食時に父。正岡という地名が僕らの近所に存在するのだ。ただし、子規は現在の松山市内の生まれであり、彼が父親から受け継いだ正岡姓と地名との関連ははっきりしない。

 「いい出会いでした。またお目にかかりましょう。」

 原付の後ろ姿を見送りながら、心中に弾むものがあった。「10年もしたらこのあたりはゴーストタウン」と昨夜父が言い切ったばかりである。ただ廃村化する一途だとしたら、そんなところへわざわざ帰ってくる物好きはいない。しかし少しだけ目をこらせば、東京にないものがあり、東京にいない人がいるといったことは、いくらでも見つかるはずなのである。

Ω

 

 


松江市立内中原小学校、昭和42年春、4年2組の一風景

2018-08-09 11:16:38 | 日記

2018年8月8日(水)

 昨日から母の裁縫部屋を借用して作業し、ついでに室内の古文書を漁ったりしている。いきなり出てきた写真、これ掲載してしまおう。

 子どもたちの顔がまるわかりで今日標準では「アウト」とされそうだが、枠の印字から分かる通り1967(昭和42)年3月、つまり50年以上前のものである。今さら誰かに迷惑をかける気遣いもなかろうと踏んだ。狙っているのは逆の効果で「わ、懐かしい!」と反応してくれる人が、もしやありはしないかと願う。あったら是非ともコメント機能を使って御一報くださいませ。僕は翌1968(昭和43)年の夏休みに山形へ転校し、級友らの音信もまもなく絶えた。半世紀経って懐かしさの募るお年頃である。

 日付から考えて場面は3学期終業の頃、松江市立・内中原(うちなかばら)小学校4年2組、担任は原哲子先生である。右端の男子がたぶん学級委員長で、一年を振り返っての表彰状を皆に配っているものらしい。小脇に挟んだ紙の束からして、全員が何かの表彰を受けられるよう配慮したものか。4月からは5年生でクラス替えを控え、若干のセンチメントもあった・・・かな。

 自分でも驚いたのは、写真を見たとたん名前が口をついて出たことである。これは微妙に伏せておこう。賞状をうけとっているのがY岡さん、あとはM野さん、M山さん、O副さん・・・

 長円形の名札はよく覚えているが、女子の冬服はこんなだったのか。不思議なのは誰が撮影したかということで、運動会や学芸会でもない限り親がやってきて写真を撮ることは考えにくい。担任の原先生は写真を撮ったりなさらなかった。写真担当の先生がおられたのだろうか。

 このところ松江は最高気温の高さで報道に乗るが、そもそも日本海側で冬が厳しく当時かなりの積雪があった。3月とはいえ校庭はまだ寒かろうに、子どもたちのほっぺたは丸々と健やかに張っている。

Ω