散日拾遺

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移動の午後の小発見 ~ チャペックとケストナー

2018-08-05 08:33:05 | 日記

2018年8月4日(土)

  恒例の夏の帰省初日、ぴったり500kmを休憩込み8時間あまりで移動した。深夜だか明け方だかに超巨大電子音が右耳に降ってきて鳴りやまず、こんなので運転できるか心配になったが、あれはホンモノの耳鳴りか、それとも夢だったのかな・・・

  着いた先の本棚にチャペックの『長い長いお医者さんの話』があり、久しぶりに読みふけった。いろんな意味でケストナーと対比してみたくなる名匠で、両者は生まれが10年近く違うものの、ほぼ同時代人。しかし、与えられた地上の時間に大きな違いがあった。

  カレル・チャペック  Karel Čapek、1890年1月9日 - 1938年12月25日

  エーリヒ・ケストナー  Erich Kästner、 1899年2月23日 - 1974年7月29日

  チャペックが48歳の若さでクリスマスの日に急逝したのはむろん不幸だが、一面ではより大きな苦痛から彼を救うことになった。チャペックが作品の内外で公然とナチスを非難したことは、代表作『山椒魚戦争』で知られる通り。そのナチスが1939年春、チェコに進駐した。プラハ占領後ただちにチャペック邸に踏み込んだゲシュタポに向かって、妻オルガは夫が3ヶ月前に他界したことを「皮肉たっぷりに」伝えたという。

  一方、チャペックの創作上のパートナーでもあった兄ヨゼフ・チャペック(Josef Čapek、1987年生まれ)は逮捕収監され、アンネ・フランクが落命したのと同じベルゲン=ベルゼン収容所で1945年4月に死亡した。4月15日にはイギリス軍がこの収容所を解放しており、その寸前あるいは直後ということになる。カレルは早世によって収容を免れ、ヨゼフは二人分の苦しみを負ってそこで死んだ。

  ケストナーもまた反ナチの姿勢が鮮明であり、おまけに父方にはユダヤ系の血が混じっていたが、敢えて亡命せずドイツに留まって偽名での執筆を続けた。当局もまたケストナーの人気ゆえ強硬な処遇をなしえなかったという。戦後のエッセイに『もし私たちが戦争に勝っていたら』と題するものがあるように聞きかじり、読んでみたいが見つけられずにいる。チャペック兄弟とケストナーの平和な文学談義を聞いてみたかった。

  なお『長い長い』の訳者は愛媛出身の偉大な英文学者、中野好夫(1903-1985)である。あとがきに英語からの転訳であることを率直に記し、新進のチェコ文学者の助けを得て訳文の質が向上しつつあることを喜んでおられる。1962年頃のことだ。

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