散日拾遺

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夏の庭 2018

2018-08-08 07:20:14 | 日記

2018年8月7日(火)

  気温は東京も松山も変わらないが、身体の楽さがまるで違う。夏が苦手、暑いのが嫌いと自分でも錯覚するのは東京だからで、実はワイシャツ着て街中で汗かくのが嫌なだけだ。野良でかく汗の気持ちいいこと!そして野をわたる潤った風は、命を甦らせる。風が吹くと思わず息が深くなり、外の風と内の風が呼応するようである。

  芙蓉の大輪が夏を映して紅い。「芙蓉」と聞いて「帳」と受けるのは長恨歌からか。「芙蓉帳暖度春宵(芙蓉のとばり暖かくして春宵を渡る)」、「春宵短かきに苦しみ日高くして起き、此れより君王早朝せず」と続くのだが、むろん芙蓉の責めにあらず。背の高いわりに足元の頼りない花で、足弱という言葉を思い出したりする。細腰の器量よしだ。

  ノウゼンカズラに花が咲いた!ついに、である。もう10年も蔓ばかりで花が咲かず、咲かない訳があるものと諦めていたら今年ようやく初めて咲いた。「それはいいのだけれど」と母、「ノウゼンカズラはお隣の松の木に付きたがっているから、気をつけて見てあげて。」

  「付きたがっている」は擬人的だが、あながち非合理的な感情移入とも言えない。テレビなどで時間を圧縮して植物の成長を追うことがあるが、蔓があちこちに触れては右往左往しやがて最も好ましい相手に巻き付いていく様は、動物が触覚で周囲を探索するのと本質的に変わらない。違うのは速さだけで、それがどれほど本質的な違いだろうか。カミキリムシが隣の木に「飛び移りたがっている」のがありなら、ノウゼンカズラが隣の木に「付きたがっている」のもありという理屈である。植物に意志や心は本当にないのだろうか?

  哲学的な議論はともかく、ここに住む人々は「植物に意志あり」との仮説に立って生きている。それこそがこの場で合理的なことである。

  これは動物、アシナガバチの巣。縁側でぼんやりしていたら、一匹のハチがサザンカのツヤツヤした葉陰にスイと消えるのが見えた。アシナガバチはそこに巣があるのでない限り、サザンカの樹冠などに用はない。角度を変えて見たら案の定、木の葉隠れに巣が見通せた。後は高バサミで摘み取るだけ。

  念のために言えばハチという動物は嫌いではなく、むしろ好きだし敬意すら抱いている。とりわけアシナガバチは、エサをとるための狩りは別として一徹な専守防衛主義者で、巣の近くに踏み込む相手には無条件で突撃するが、巣を離れれば決して無用の攻撃を仕掛けたりしない。そうと知っていても、間違って巣の直近に踏み込んで刺されることが過去に何度も起きており、しかも僕はハチ毒へのアレルギーがあるから、屋敷内のハチの巣は落とさないわけにいかないのである。

  黄緑がかった美しいフタの奥に、コロニーの将来を担うハチの仔たちがいたはずだ。ゴメン、手を合わせる気持ちである。

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