散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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医療・福祉現場の「冤罪」の危険 (ブログ公開版)

2015-12-20 10:55:12 | 日記

2015年12月19日(土)

 子どもの虐待防止が社会的急務となっている。

 だからこそ、というのかな、その裏面を示すような事例を最近よく耳にする。乱暴に要約すれば、「虐待親であることを疑われた人々に対する、過剰かつ不当な先走りの敵意」とでも言うようなもので ある。たとえばこんなふうだ。

 

 (事例1・・・省略)

 そして、弁護士の面会申し入れをにべもなく拒絶した医師の曰く、

 「子どもを虐待するような父親とは会いたくない」

 

 いっぽう、こんなケースもある。

 (事例2・・・省略)

 この女性のところに児童相談所から電話がかかってきた。虐待の通報があったと告げ、頭から詰問調である。

 「息子さんを包丁で脅したというのは、事実ですか?」

 なるほどそうなりますかと苦笑するしかない。女性の答え、

 「事実かどうかというなら、事実です。真実ではありませんけど・・・」

 

 こんなに省略してしまっては何が何だか分からないが、どう修正脚色してもネタ元に迷惑をかけそうなので、これ以上は書けない。もっとも、こんな話は今時ざらに転がっている。

 ともかくここでのポイントは、男性の例では架空の医師、女性の例では架空の児相担当者が、十分な事実調べをせずに相手を「虐待親」と決めてかかっていることだ。せめて相手を一目見てから判断しろと言いたいが、本当は一目見たのでは足りない、双方の主張や周囲からの情報をよくよく調べ、それでも真相の分からないことすら珍しくないのである。前のケースでは、実は母親のほうに精神的な変調がある可能性だって否定できない。

 医師は診察室で患者の話を聞く。相手を疑ってかかったのでは話にならないし、まずは全面的に共感をもって受け止めるものだが、患者が立ち去った後で、さて彼(女)の話はどこまでそのまま信用できるだろうか、事実はその通りとしても、違う角度からは違って見えることもありはしないか、などと考えめぐらすのが知恵というものだ。僕などは自分の推理力にあまり自信がもてないから、家族や職場関係者の来訪は大いに歓迎である。むろん本人の了解を得て会うのだが、そうした人々がもたらす情報にはまずもって外れがなく、必ず何かの役に立ってくれる。まして虐待加害者の疑いのある父親なら、是非とも会いたいと考えるのが当然というものだ。自分の判断に対するこの医師の盲信は、仮にたまたま正解を当てていたとしても、潜在的に深刻な問題をはらんでいる。

 「そんな親には会いたくない」って、架空のあなた、それでもプロですか?

  児相担当者も同じことである。介入の遅れで子どもが死亡する事例があり、社会的批判を浴びてさぞや緊張も焦りもあることと察する。それを避けたいならなおのこと、まずは現場に足を運んでほしいものだ。虐待扱いするなら、母親を見下ろす息子の体躯と、母親の手足の青アザを見てからでも遅くはない。いったいどちらがどちらを虐待しているか。書類だけで動くから間違いが起きる。会わずに電話で済ますから見えるはずのものが見えないのだ。

 いずれの場合も、手遅れを避けたいなら迅速に子どもを保護することが肝心だが、その段階で「誰がどのように虐待を行っているかは、まだ分かっていない」ことをわきまえていなければならない。立証されるまでは、被疑者は加害者ではない。被疑者に対する上記のような言動は、名誉毀損に準ずる不適切なものである。

  多くの関係者は、これらの例ほどに未熟でも無能でもないことを願っているし知ってもいるが、やはり懸念を書きとめておきたい。虐待親と誤認された人々の苦悩は、冤罪被害者のそれと基本的に同質である。社会的な権威や権力がそれを後押しするならば、最悪の図式というものだ。


のれんとAKBと夫婦同姓

2015-12-19 09:04:23 | 日記

2015年12月19日(土)

 少し前から「あさが来た」を見ている。近藤正臣扮する「大阪一のお父ちゃん」が家族に囲まれて息を引き取る場面、古き良き日本の風景が昨日の分。近藤正臣はちょんまげがよく似合う。大河ドラマで明智光秀の「キンカン頭」を演じた頃とは、すっかり変わって円熟した。あれは確か『国盗り物語』、1973年だったかな。続けて今日の分のテーマソング、AKB48の歌だというのでも話題になっている。

 「朝のそらを見上げて、今日という一日が~♪」

 聞いてふと気づいたんだが、歌ってるのは「AKB」という名前のタレントじゃなくて、グループに属する誰それ(たち)なんだよね。しかもAKBはどんどん代替わりしていくから、実際に誰が歌っているかは、ことさら調べない限り見えない/問われない仕組みである。Perfume が歌ってるというのとは根本的に話が違う。

 これ、実は日本人が得意とする「名跡」や「のれん」のシステムではないか。「あさが来た」の舞台になっている「加野屋」と同型で、人は代替わりしつつシンボルと構造は生き続ける。同じ、でしょ?違うのはAKBの先代と当代の間に、血統のつながりがあるわけではない点だ。それはこの場合、本質的なポイントではない。日本人はこれが好きなんだよ、きっと。

 この構造に対して、誰か名前をつけているだろうか?これ私見によれば、日本の社会を特徴づける最も重要な基本構造である。中国人や韓国人は実際の血統に遙かに強く執着する。もちろん日本にも純血統型の世襲組織はたくさん存在するが、それ以上に目立つのが「のれん/名跡」型の疑似家族組織で、たとえば江戸時代の武家が上は将軍家から下は下級武士まで、血統以上に家名の誉れと連続性を尊しとしたことは典型的な例である。これは武家だけの習慣ではなく、同様の基本姿勢が士農工商の身分秩序の上から下まで貫徹していた。棋道における本因坊家その他もまた同じ。

 

 それでまた飛躍するようだが、一昨17日(木)の朝刊一面が報じた今週の一大事件は、「民法の夫婦同姓規定は合憲」との最高裁判断。15名中、賛成10、反対5、女性裁判官3名は全員反対という、微妙な内情が伝えられている。

 個人的には意外でもあり残念でもありで、立法や行政の硬直性を司法が是正する大きなチャンスを逸したと思うが、それはいちおう置く。今朝ふと思ったのは、「夫婦同姓」規定が「のれん/名跡」システムとぴったり符合することだ。それは各家庭を日本型の疑似家族組織として整形する意味をもっている。

 「家庭を疑似家族化する」とは妙な言いぐさだが、DNAで直接間接につながっている一群の人間を、上述のような「名」のもとに統合するプロセスを「疑似家族化」と呼ぶことにして、「同姓規定」はこれを支えるものとして要請されてきたというのである。夫婦同姓が家族原理にとって必須でないことは、中国や韓国の例を見れば一目瞭然である。儒教の浸透度の高い中・韓では、日本以上に生(なま)の家族の絆が重視されることもあわせて考えたい。それは言うなればDNAの論理の制度的反映である。これに対する日本のシステムはDNAの論理を参照しつつも、その連続性をいったんバラしてリシャッフルする意味あいをもっている。バラされたものを再統合するコンセプトが「のれん」であり「名跡」なのだ。「名跡」が大事であるからこそ、必然的に「同姓」が求められることになる。「名」を共有しないなら、日本型疑似家族の存在意義はあらかた失われてしまう。「名」こそが「実」というわけだ。

 言わずもがなの註をつけるなら、ここで中・韓流が良いといっているのではないし、日本流を称揚するわけでもない。ただ、自分たちが何をやっているか、自覚しておく必要があると言っておきたい。自覚したうえでどう動くかは個人の考え方次第だが、憲法が「同姓規定」を容認するという構図は、もはや通らないのではないかしら。自分たちが創り出す自分たちの家庭の「疑似家族化」を望むかどうかは、まさしく当人たち次第であるのに、「同姓でなければならない(=別姓を許さない)」という規定はあまりにも不寛容であろう。理論的には説得力が乏しく、歴史的には既に現実に合わない。それを維持することで家庭の崩壊に歯止めがかかるわけでもない。

 家庭の崩壊をもたらしているのは、もっと別の事情である。

   


2015年12月17日(木)

2015-12-17 22:45:01 | 日記

2015年12月17日(木)

 13時前の山手線目黒駅ホームは案外混んでいて、杖をついた小さなおばあちゃんが人波にすっぽり埋もれてしまった。目の前に優先席があるんだが合間を人々が塞いでいて、その顔はおばあちゃんの頭上でよそを見ている。仕方ないなあ・・・

 「すみません、優先席、座らせてあげてくださいませんか?」

 三人がけのシートから瞬時に手前の二人が跳ね上がり、奥の一人が腰を浮かせた。全員、手にはスマホ。おばあちゃん、懇ろに礼を言いながらめでたく着席する。

 だからさ~、皆、気持ちはあるのね。もったいないことにスマホで周りが見えなくなってるのだ。ああもったいない・・・

 

 乗った電車は恵比寿で1分、渋谷で2分、原宿でまた2分、こまめに「時間調整」を行う。後続電車が品川駅で車両点検をして遅れたんだそうで、理屈は分からないではないがどうなんでしょうね。目黒から新宿までものの10分の行程が、時間調整で倍近くに伸びる。僕なんか別に構わないけれど、池袋まで行く間には乗り継ぎに遅れる人も出るだろう。後続電車が遅れたからといって先行電車の乗客まで遅らせる害と、混雑調整の必要性と、まあ難しい比較考量ではあろうけれど。

 

 診療先では、今日も小説より奇なる事実を患者さんたちが聞かせてくれる。とりわけ、世間知らずのわがまま勝手な医者がいることにはほとほと呆れた。もちろん良医名医みもいるのだけれど、玉石混淆というのか、モラルや社会性の個人差があまりに大きすぎる。そしてかかってみるまでは、それを知る術(すべ)が患者にはないのである。この件、くわしく書きたいけれどさすがに書けない。いっそ小説にでも仕立てるか。

 

 H君、『今日のメンタルヘルス』購入ありがとうございます。実は私の執筆箇所に、間違いが一カ所あります。というか、執筆後に事情が変わって間違いになっちゃったのね。ただいま追補作成中、どこだか見つけたら今度会ったときに一杯おごりましょう。

 

 口直しに田園の幸を掲載。これらを育てた人々が、まもなく冬を越すため東京へやってくる。越冬のため北に移動する鳥は、北半球ではちょっと珍しいかもね。

 前にも書いたけれど、蕪の鮮やかな緋色は着色料ではない。赤蕪を橙(だいだい)で漬けると、こうして見事に発色する。錬金術みたい!まことに錬金術は台所で生まれたのである。

 


抗不安薬の効きすぎ/やっぱり君はH君

2015-12-17 10:09:52 | 日記

2015年12月17日(木)

 月曜の深夜に会津へ発った勝沼さんから、火曜の晩にコメントあり。

タイトル: 抗不安薬

コメント:  昨日の勉強会になぞっていうなら、日本という国は福島や沖縄の問題に対して抗不安薬が効きすぎているように思えます。

 

 なるほど、と納得。ただしこれには注釈が要る。月曜の晩の精神科薬物療法勉強会で、「必要な不安までも抗不安薬で押さえ込んでしまうことの弊害」が話題になったのだ。手前味噌で恐縮だが、以下の記載が参考になるかと思う。

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 不安は不快な感情であるから、人はこれを解消するために何らかの対処行動をとる。上記の例(註:ここ数日、何か落ち着かない気持ちを感じていた母親が、遠方の学校に行って一人暮らしをしている娘から、しばらく連絡がないことに思いあたったという事例)ならば、娘に連絡してその安全を確認しようとするだろう。その結果、元気と分かれば「取り越し苦労」と笑い話ですむが、もしかすると娘が病気で寝込んでいたことが判るかもしれない。こうした場合、母親が不安を感じてそれを解消する行動をとったことが、現実の問題への有効な対処につながっている。そこに不安が介在することで対処行動への動機づけが高まり、対処がより迅速になっているだろう。このように不安は不快な感情であるが、日常生活の中で生じる危険や困難に対して、警戒信号としての重要な役割を果たしているのである。

 恐怖にも同様のことが言える。恐怖は不安と似ているが、いっそう差し迫った鋭い情動であり、より切迫した具体的な危険と結びついている。獰猛な野生動物に出会う場面を想像すれば分かりやすい。恐怖はこれに伴う交感神経系の反応とあいまって、危険な状況からの速やかな離脱を促すとともに、これに必要な身体機能を瞬時に動員する意義をもっている。恐怖は不安以上に耐え難いものであるが、だからこそヒトの生存や適応に不可欠の役割を果たしてきたのである。

 不安や恐怖のこのような意義は、身体の次元における痛みになぞらえることができる。ただし、痛みの強さやパターンが生理的にあらまし決定されているのと比べ、どんな場合にどれほどの不安を感じるかはある程度先天的に決まっているものの、成長過程で学習する部分も大きい。社会経験の乏しい少年少女が、好奇心や軽率さから犯罪事件に巻き込まれたりする背景には、しばしば不安の学習不足が関与しているだろう。

 拙著 『今日のメンタルヘルス 改訂版』 (第12章 「精神疾患(3)不安とその周辺」) P.120

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 以上は個人病理に注目して書いたのだが、社会病理に関しても理屈はまったく同じである。そしてこの種の「警戒信号」としての不安は、対症療法によって性急に抑制すべきではない。むしろ不安の依って来たる原因を探査し、これを根本的に解消することこそが叡智なのである。言い換えれば、この種の不安に耐えて原因の探索を行う、その粘り強さがとりもなおさず人として、社会としての「成熟度」の指標となるのだ。

 日本人が打たれ弱くなったという。確かにその面はあるが、私見としてはそれは個人の資質の劣化よりも、コミュニティの崩壊に依るところが大きいと思う。個人としての日本人の中には、依然として尊敬すべき強靱さと成熟度をもった人々が ~ 黙して語らぬ市井一般の中にこそ ~ 世界標準以上に存在している。問題なのは、僕らの社会の不安耐性がいっこうに高まらず、原因の探索に向かう代わりに対症療法的な不安解消に汲々としている点だ。

 勝沼さんは、そこのところを的確に指摘したのである。

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 韋駄天君は、やっぱりH君だった。「君」呼ばわりでは障りもあろうか、今や筋金入りのベテラン心理士として活躍中だろう。それでも僕にはH病院のグラウンドで、二本脚の馬みたいなケタ外れの俊足を披露した若者の姿が思い浮かぶ。来月からは復興の最前線で週2日勤務とのこと、心から健闘を祈って止まない。

 勝沼さんと、いつか三人で一杯やりましょうかね。このぐらいなら「抗不安物質」も許されるでしょう?

 

 


運動会で一等賞! / 継続は力

2015-12-15 09:08:11 | 日記

2015年12月15日(火)

 ん、これは?

 「運動会で一番でした」さんから、「懐かしくてつい書いてしまいました」というタイトルのコメント、そのココロは・・・

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 放送大学の今日のメンタルヘルスを見て懐かしくて、ネット検索してしまいました。このブログを見つけてコメントを書いている次第です。

 約27年前、先生と同じ職場に入職した、運動会で一番足が速かった者です。私は、今も同じ所で、自分のペースで歩いています。先生のご本で勉強してみようと思います。機会がありましたら、お会いしたいです。

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 H君ですね?そうだよね?

 ちょっとやそっとの「速さ」じゃないんだよ、100mを11秒台前半というのは。目の前で見ると何というのかな、別種の生き物の別種の運動を見ているようで、風の塊が音を立てて吹き抜けていくみたいで、見ているだけで転びそうになる。そのぐらい速かった心理課の新人男子、その後はじっくり腰を据えて、被災地の一隅で持ち場を守ってくれているんだね。

 機会をつくって、ぜひお目にかかりましょう。僕の方こそ、いろいろ教わりたいのです。

  

 

 昨夕は薬の勉強会の後、3月の講演会の打ち合わせかたがた4人ほどで小さな会食。メニューに書かれたものの過半が「できません」「それ、ない」と片言の日本語で却下される不思議な店、フロアの反対側では若者の一団がすさまじいばかりの大騒ぎをしている、平和な渋谷の月曜の夜。

 やがて勝沼さんが「そろそろ」と腰を上げる。王子駅近くから出る夜行バスで会津若松にむかい、明日から三日間カウンセラーとして同地の学校を回るのである。2011年以降、関わりを欠かさぬ彼が、「(起きたことや続く現実を)なかったことにしようとする人の心の働き」にいま驚いているそうな。

 バスを降りたらマックぐらいしか食べるところがないのでと、エビやタンドリーチキンを頬張って出かけた。ありがとう、行ってらっしゃい!