散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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2015年12月17日(木)

2015-12-17 22:45:01 | 日記

2015年12月17日(木)

 13時前の山手線目黒駅ホームは案外混んでいて、杖をついた小さなおばあちゃんが人波にすっぽり埋もれてしまった。目の前に優先席があるんだが合間を人々が塞いでいて、その顔はおばあちゃんの頭上でよそを見ている。仕方ないなあ・・・

 「すみません、優先席、座らせてあげてくださいませんか?」

 三人がけのシートから瞬時に手前の二人が跳ね上がり、奥の一人が腰を浮かせた。全員、手にはスマホ。おばあちゃん、懇ろに礼を言いながらめでたく着席する。

 だからさ~、皆、気持ちはあるのね。もったいないことにスマホで周りが見えなくなってるのだ。ああもったいない・・・

 

 乗った電車は恵比寿で1分、渋谷で2分、原宿でまた2分、こまめに「時間調整」を行う。後続電車が品川駅で車両点検をして遅れたんだそうで、理屈は分からないではないがどうなんでしょうね。目黒から新宿までものの10分の行程が、時間調整で倍近くに伸びる。僕なんか別に構わないけれど、池袋まで行く間には乗り継ぎに遅れる人も出るだろう。後続電車が遅れたからといって先行電車の乗客まで遅らせる害と、混雑調整の必要性と、まあ難しい比較考量ではあろうけれど。

 

 診療先では、今日も小説より奇なる事実を患者さんたちが聞かせてくれる。とりわけ、世間知らずのわがまま勝手な医者がいることにはほとほと呆れた。もちろん良医名医みもいるのだけれど、玉石混淆というのか、モラルや社会性の個人差があまりに大きすぎる。そしてかかってみるまでは、それを知る術(すべ)が患者にはないのである。この件、くわしく書きたいけれどさすがに書けない。いっそ小説にでも仕立てるか。

 

 H君、『今日のメンタルヘルス』購入ありがとうございます。実は私の執筆箇所に、間違いが一カ所あります。というか、執筆後に事情が変わって間違いになっちゃったのね。ただいま追補作成中、どこだか見つけたら今度会ったときに一杯おごりましょう。

 

 口直しに田園の幸を掲載。これらを育てた人々が、まもなく冬を越すため東京へやってくる。越冬のため北に移動する鳥は、北半球ではちょっと珍しいかもね。

 前にも書いたけれど、蕪の鮮やかな緋色は着色料ではない。赤蕪を橙(だいだい)で漬けると、こうして見事に発色する。錬金術みたい!まことに錬金術は台所で生まれたのである。

 


抗不安薬の効きすぎ/やっぱり君はH君

2015-12-17 10:09:52 | 日記

2015年12月17日(木)

 月曜の深夜に会津へ発った勝沼さんから、火曜の晩にコメントあり。

タイトル: 抗不安薬

コメント:  昨日の勉強会になぞっていうなら、日本という国は福島や沖縄の問題に対して抗不安薬が効きすぎているように思えます。

 

 なるほど、と納得。ただしこれには注釈が要る。月曜の晩の精神科薬物療法勉強会で、「必要な不安までも抗不安薬で押さえ込んでしまうことの弊害」が話題になったのだ。手前味噌で恐縮だが、以下の記載が参考になるかと思う。

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 不安は不快な感情であるから、人はこれを解消するために何らかの対処行動をとる。上記の例(註:ここ数日、何か落ち着かない気持ちを感じていた母親が、遠方の学校に行って一人暮らしをしている娘から、しばらく連絡がないことに思いあたったという事例)ならば、娘に連絡してその安全を確認しようとするだろう。その結果、元気と分かれば「取り越し苦労」と笑い話ですむが、もしかすると娘が病気で寝込んでいたことが判るかもしれない。こうした場合、母親が不安を感じてそれを解消する行動をとったことが、現実の問題への有効な対処につながっている。そこに不安が介在することで対処行動への動機づけが高まり、対処がより迅速になっているだろう。このように不安は不快な感情であるが、日常生活の中で生じる危険や困難に対して、警戒信号としての重要な役割を果たしているのである。

 恐怖にも同様のことが言える。恐怖は不安と似ているが、いっそう差し迫った鋭い情動であり、より切迫した具体的な危険と結びついている。獰猛な野生動物に出会う場面を想像すれば分かりやすい。恐怖はこれに伴う交感神経系の反応とあいまって、危険な状況からの速やかな離脱を促すとともに、これに必要な身体機能を瞬時に動員する意義をもっている。恐怖は不安以上に耐え難いものであるが、だからこそヒトの生存や適応に不可欠の役割を果たしてきたのである。

 不安や恐怖のこのような意義は、身体の次元における痛みになぞらえることができる。ただし、痛みの強さやパターンが生理的にあらまし決定されているのと比べ、どんな場合にどれほどの不安を感じるかはある程度先天的に決まっているものの、成長過程で学習する部分も大きい。社会経験の乏しい少年少女が、好奇心や軽率さから犯罪事件に巻き込まれたりする背景には、しばしば不安の学習不足が関与しているだろう。

 拙著 『今日のメンタルヘルス 改訂版』 (第12章 「精神疾患(3)不安とその周辺」) P.120

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 以上は個人病理に注目して書いたのだが、社会病理に関しても理屈はまったく同じである。そしてこの種の「警戒信号」としての不安は、対症療法によって性急に抑制すべきではない。むしろ不安の依って来たる原因を探査し、これを根本的に解消することこそが叡智なのである。言い換えれば、この種の不安に耐えて原因の探索を行う、その粘り強さがとりもなおさず人として、社会としての「成熟度」の指標となるのだ。

 日本人が打たれ弱くなったという。確かにその面はあるが、私見としてはそれは個人の資質の劣化よりも、コミュニティの崩壊に依るところが大きいと思う。個人としての日本人の中には、依然として尊敬すべき強靱さと成熟度をもった人々が ~ 黙して語らぬ市井一般の中にこそ ~ 世界標準以上に存在している。問題なのは、僕らの社会の不安耐性がいっこうに高まらず、原因の探索に向かう代わりに対症療法的な不安解消に汲々としている点だ。

 勝沼さんは、そこのところを的確に指摘したのである。

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 韋駄天君は、やっぱりH君だった。「君」呼ばわりでは障りもあろうか、今や筋金入りのベテラン心理士として活躍中だろう。それでも僕にはH病院のグラウンドで、二本脚の馬みたいなケタ外れの俊足を披露した若者の姿が思い浮かぶ。来月からは復興の最前線で週2日勤務とのこと、心から健闘を祈って止まない。

 勝沼さんと、いつか三人で一杯やりましょうかね。このぐらいなら「抗不安物質」も許されるでしょう?