散日拾遺

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のれんとAKBと夫婦同姓

2015-12-19 09:04:23 | 日記

2015年12月19日(土)

 少し前から「あさが来た」を見ている。近藤正臣扮する「大阪一のお父ちゃん」が家族に囲まれて息を引き取る場面、古き良き日本の風景が昨日の分。近藤正臣はちょんまげがよく似合う。大河ドラマで明智光秀の「キンカン頭」を演じた頃とは、すっかり変わって円熟した。あれは確か『国盗り物語』、1973年だったかな。続けて今日の分のテーマソング、AKB48の歌だというのでも話題になっている。

 「朝のそらを見上げて、今日という一日が~♪」

 聞いてふと気づいたんだが、歌ってるのは「AKB」という名前のタレントじゃなくて、グループに属する誰それ(たち)なんだよね。しかもAKBはどんどん代替わりしていくから、実際に誰が歌っているかは、ことさら調べない限り見えない/問われない仕組みである。Perfume が歌ってるというのとは根本的に話が違う。

 これ、実は日本人が得意とする「名跡」や「のれん」のシステムではないか。「あさが来た」の舞台になっている「加野屋」と同型で、人は代替わりしつつシンボルと構造は生き続ける。同じ、でしょ?違うのはAKBの先代と当代の間に、血統のつながりがあるわけではない点だ。それはこの場合、本質的なポイントではない。日本人はこれが好きなんだよ、きっと。

 この構造に対して、誰か名前をつけているだろうか?これ私見によれば、日本の社会を特徴づける最も重要な基本構造である。中国人や韓国人は実際の血統に遙かに強く執着する。もちろん日本にも純血統型の世襲組織はたくさん存在するが、それ以上に目立つのが「のれん/名跡」型の疑似家族組織で、たとえば江戸時代の武家が上は将軍家から下は下級武士まで、血統以上に家名の誉れと連続性を尊しとしたことは典型的な例である。これは武家だけの習慣ではなく、同様の基本姿勢が士農工商の身分秩序の上から下まで貫徹していた。棋道における本因坊家その他もまた同じ。

 

 それでまた飛躍するようだが、一昨17日(木)の朝刊一面が報じた今週の一大事件は、「民法の夫婦同姓規定は合憲」との最高裁判断。15名中、賛成10、反対5、女性裁判官3名は全員反対という、微妙な内情が伝えられている。

 個人的には意外でもあり残念でもありで、立法や行政の硬直性を司法が是正する大きなチャンスを逸したと思うが、それはいちおう置く。今朝ふと思ったのは、「夫婦同姓」規定が「のれん/名跡」システムとぴったり符合することだ。それは各家庭を日本型の疑似家族組織として整形する意味をもっている。

 「家庭を疑似家族化する」とは妙な言いぐさだが、DNAで直接間接につながっている一群の人間を、上述のような「名」のもとに統合するプロセスを「疑似家族化」と呼ぶことにして、「同姓規定」はこれを支えるものとして要請されてきたというのである。夫婦同姓が家族原理にとって必須でないことは、中国や韓国の例を見れば一目瞭然である。儒教の浸透度の高い中・韓では、日本以上に生(なま)の家族の絆が重視されることもあわせて考えたい。それは言うなればDNAの論理の制度的反映である。これに対する日本のシステムはDNAの論理を参照しつつも、その連続性をいったんバラしてリシャッフルする意味あいをもっている。バラされたものを再統合するコンセプトが「のれん」であり「名跡」なのだ。「名跡」が大事であるからこそ、必然的に「同姓」が求められることになる。「名」を共有しないなら、日本型疑似家族の存在意義はあらかた失われてしまう。「名」こそが「実」というわけだ。

 言わずもがなの註をつけるなら、ここで中・韓流が良いといっているのではないし、日本流を称揚するわけでもない。ただ、自分たちが何をやっているか、自覚しておく必要があると言っておきたい。自覚したうえでどう動くかは個人の考え方次第だが、憲法が「同姓規定」を容認するという構図は、もはや通らないのではないかしら。自分たちが創り出す自分たちの家庭の「疑似家族化」を望むかどうかは、まさしく当人たち次第であるのに、「同姓でなければならない(=別姓を許さない)」という規定はあまりにも不寛容であろう。理論的には説得力が乏しく、歴史的には既に現実に合わない。それを維持することで家庭の崩壊に歯止めがかかるわけでもない。

 家庭の崩壊をもたらしているのは、もっと別の事情である。