散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

稲尾と田中/兄弟たち/趙治勲 ~ サブカル相互浸透の英雄

2013-10-29 08:11:26 | 日記
2013年10月29日(火)

田中将大、二度目の沢村賞、文句なしだ。
外角に決まる彼のストレートが絶品である。伝説の沢村のストレートはどんなだったんだろうか。
僕の知る範囲で、田中は稲尾さんに重なるところが多い気がする。

うなる豪球と緻密なコントロール、積み上げた勝利の数、日本シリーズで読売の前に立ちはだかるところまで、よく似ている。稲尾さん、もう少し長命して今年の田中を見てやってほしかった。

***

前にも書いたが、長男が高校の修学旅行で九州を訪問中に稲尾さんが他界された(1937-2007)。
長崎でビードロを買ったあの旅行で、ちょうど彼は大分県内にいたのではないかと思う。
よくそのことを思い出すのは、なぜなんだろうか。
晩年の稲尾さんの温顔に惹かれるところが僕の内に強い。

長男と次男は2歳違いで、くんずほぐれつ一対として育ってきた。
長男は3歳から6歳、次男は1歳から4歳をアメリカで過ごし、出先でよく「双子?」と訊かれた。
特に似てはいない。白人や黒人はアジア系に比べて多胎率が高いので、そういう発想になるのであろう。
ただ、彼らの育ち方はある種の「双子」と言えたかもしれない。もって生まれた個性は容姿同様に違っていたけれど。

三男は少し年が離れている。
7歳年上の長男にけっこう「いじられた」ことを、今になって明かすのが可笑しい。

ケーキを切ったのが置いてあって、
「こっちは4分の1、こっちは5分の1、どっちがほしい?」
「え~っと・・・」
「4と5は、どっちが大きいの?」
「5・・・わかった、5分の1をちょうだい!」

三男が訪ねていく先の道を、長男がよく知っているという。
「駅を降りて、坂を上っていくとね、右側にコンビニがあって」
「コンビニね」
「もう少し行くと、左側にカラスがいるから、そこを右に曲がるの」
「カラスだね、わかった」
・・・着かないって

末っ子は鍛えられる。
むろん、兄たちには兄たちの苦渋も忍耐もあったのだ。
血を分けた他人の始まりたちが、共に育つ幸いを思う。

***

テーブルの上に、何かの広告冊子が置かれてある。
特集記事のテーマが「和のお・も・て・な・し」云々と日本の伝統美を前面に掲げるらしく、しかし表紙を飾る写真がKARAの華やかな面々なのに思わず笑ってしまった。

このことひとつをとっても、良い時代になったと思う。
政治的な対立があり、人心を蝕むヘイト・スピーチの応酬があるいっぽうで、サブカルチャーのレベルでの相互浸透は確かに進行している。エントロピー増大則と関連づけることができるのかどうか分からないが、この種の浸透は巨視的には止められないもののようだ。
むろん、それが少数者にとっての脅威となる場合もある ~ たとえば北米やオーストラリアの、そして日本の先住民にとって。しかし今のこの極東情勢の中では、それこそが希望であるように思われる。

で、

結局お前の話はそこに落ちるのかと言われそうだが、趙治勲という棋士に敬服するには、そういう文脈も手伝っているのだ。

彼は僕のちょうど半年前に生まれた。まさに同世代人である。
幼くして囲碁の手ほどきを受けるや直ちに異才をあらわし、ソウルに天才少年ありとの噂が立った。
来日して木谷實道場に入門したのは1962年、治勲6歳の時だ。

1962年・・・

今とは違う、全く違う。
日韓基本条約によって両国の国交が正常化するのは1965年のこと、かつて韓国を植民地として支配した日本との間には国交すら樹立されず、李承晩ラインはベルリンの壁や鉄のカーテンに匹敵するほどの隔たりを作り出していた。
そこへ6歳の愛児を送り出す時、両親はどんな思いであったか、治勲少年(少年というにも早すぎる!)またどんな気持であったか。



しかしこの子はまさしく臥龍であり、やがて昇竜となった。

来日翌日、こちらは台湾から来日し、当時気鋭の二十歳であった林海峰六段に、五子局で勝ちを収める。
1968年、11歳9か月でプロ試験に合格。これは当時の最年少記録だ。
1971年、五段昇進。この時のインタビューで、「僕は五段になるために日本にきたんじゃありません」と答えたという。こういうところが、常に気魄をむき出しにする対局姿勢とともに、反感を買いもしただろう。

彼が最初にビッグタイトルに挑戦した時、新聞社などに寄せられる「ファン」からの手紙の中に、相当量の趙バッシングが含まれていた。
「日本の伝統あるタイトルを韓国人に取らせるな」式のものだ。
ある記者がこれを憂慮して記事を書いた。趙は確かに韓国生まれだが、木谷道場で育ち日本棋院で活躍する日本の棋士である。そのように彼を見てほしい、と。
すると思いがけないところから文句が出た。
記事を見た韓国の関係者が激しく抗議したのである。
「彼はれっきとした韓国人であり、国民的な英雄だ、日本の棋士などと言わないでもらおう・・・」

それもこれも趙治勲が強すぎたからである。
嬉しいことに、趙自身はただの一度もブレることがなかった。
「日本」に阿ることなく、「韓国」に媚びることなく、他の誰もまねできない独特の棋風で打ち続け、勝ち続けた。

趙が大きな交通事故に遭ったことがある。1986年1月のことである。
乗用車を運転中にオートバイに接触し(接触され)、相手が転倒した。
助けようと車外に出たところを(実に趙らしい)、後ろから来た車にはねられた。
全身に多数の骨折を生じる重症だったが命に別状なく、幸い「頭と右手」を動かすことができた。
自重を促す周囲を押し切り、車椅子で番碁に臨む。小林光一に敗れて棋聖位を失い無冠となったが、夏には大竹から碁聖位を奪取し、翌年の天元戦で小林を破って史上初のグランドスラムを達成した。
逸話を語ればきりがないので、この辺でやめておこう。

中韓の台頭について語る時、趙は常に「日本の碁」の一員として自分を位置づける。
くどいようだがことさら「日本」に阿ってではない、彼自身がそこで育ってきた木谷門と日本棋院が、血肉になっていることの素直な表現だ。

「日本も韓国もない」などということは、今ならば易しい。
しかしあの時代、あの難しい時代に一徹な生き方を通してそれを表現して見せたのは、ただ事ではない。
それは趙治勲という稀有の人物の魅力であり、同時に「碁」の包容力の素晴らしさでもあるだろう。

中国、台湾、そして韓国から、数多くの「渡来人」が日本の棋界に参入して活躍してきた。
呉清源、林海峰、趙治勲はそれぞれを代表する「名」と言える。それが僕らの誇りとなっている。
記紀万葉の時代に黎明期の「日本」を生み出した、それと同じダイナミズムがここにあると僕は思うのだ。

「日本」とは血統ではない、文化概念だ。そこに東アジアの、ひいては世界の最善のものが流れ込み結実する。
それに参与するもの皆が仲間である。

***

オマケに最近号の「お悩み天国」を添付しておこう。
先の写真のかわいい坊やと、この筆者と、
同一人物なんだよ、ほんとうに!


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。