散日拾遺

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☆☆☆ 回復ということ ~ 強迫性から「復活」まで

2016-02-24 10:08:26 | 日記

2016年2月22日(火)

 河津桜がまた少し膨らみ、    紅梅は既に盛りを過ぎて、 

 白梅がいま満開! 

 

 そろそろ個人研究費の執行締め切り、一気に消化してやろうと意気込んで出かけたら、

「え、先週の金曜日に締め切られましたよ」とHさん、そうか、しまった。

「事務に頼んでみますか?」と気の毒そうに言うが、担当課の辞書に「情状酌量」の言葉がないことは年来熟知している。いちおう軽く確認して、さっぱりあきらめた。このところ忙しくて気もそぞろだったのは主として校務のためだから、惜しかったなとは思うが後悔はさらにない。ただ、これが僕のアタマのアンバランスな特性というもので、どうやらこれを受け継いだ息子(ら)が似たような失敗をやらかしているらしいことを、気の毒に思うけれど致し方もない。

 

 午後、約束の来客あり。1月の文京の講演会で「アルコール依存症からの回復とは何か」と質問してこられた、他プログラムの院生Tさんである。資料を持参し、その際のやりとりの続きをしたくてやって来たのだ。こういう客は嬉しいもので、あっという間に1時間あまりが過ぎた。

 文献的根拠もエビデンスもなく、ただ「回復」について自由連想的に語るとすれば・・・

1. さしあたり酒を飲まずに生活できていること ・・・ 身体的回復

2. 酒のことで頭がいっぱいという状態から抜け出せていること ・・・ 心理的回復

3. その人本来の社会的機能を発揮できていること ・・・ 社会的回復

4. 酒以外のものを含め、およそ「強迫的な欲求」や「依存」を克服し、人生において自由であること ・・・ 霊的回復

 こんなふうになるのかな。例の4段階(physical, mental, social, spiritual)はどこへ行くにも付いて回る。

 あわせて、restoration と recovery の違い、依存症の臨床の広く深い意義、統合失調症などと考え合わせた「回復」モデルの一般的意味などについて、語るにつれどんどんイメージが枝分かれし、広がっていく。回復に関する「オリヅルラン」モデルがあるのだそうだが、回復について話し合うこの作業自体がオリヅルランの構造をもっている。

 

 依存性は「強迫」の一形態とみることができる。むろん「悪しき強迫」の亜型だが、実は現代社会は非常な強迫性を前提として構築されていることを銘記すべきである。「締切厳守」もその端的な一例だが、電車の運行などは象徴的なもので、「強迫」という煉瓦をほとんど無尽蔵に消費して構築されるピラミッドのようなものだ。「人身事故」の日常的な発生(=自殺者が他の方法ではなく、鉄道を選んでいるという事実)は、社会を貫徹する強迫性に対する絶望的な抗議という意味がありはしないかと思う。

 「良き強迫」と「悪しき強迫」をとりあえずは区別してみるものの、両者の間には「益虫」と「害虫」に相当する便宜的な区別があるだけで、本質的に良いも悪いもない。そうだとすれば、依存症こそは現代を象徴する時代の病であるのだし、例によって顕在的に病むものと真の問題の所在とは一致せず、ある人々が皆の「代わりに」病んでいるという視点がことのほか重要ではないかしら。(キリストの福音が、律法主義という名の強迫を克服する原理として登場したことを思う。)

 あるいはまた、健常者にとっての「回復」とは何かと考える。「健常者 = 発症準備状態にあるもの/潜在的に病んでいるもの」と考えるなら、回復は既に発病した者だけの課題ではないわけで、そのことは上述の社会全体の「強迫性」を考えるとき、ひときわ強く意識される。実際、「強迫性」は地球生命体全体を蝕む病となりつつある。中井久夫が『分裂病と人類』の中で生き生きと記述したエチオピアのような「非強迫性」社会はほぼ消滅し、モンゴルの遊牧民がオートバイで疾駆する時代が来ている。「強迫」の津波が、ほどなく地球表面を残るくまなく呑み込むだろう。人工衛星は僕らの行住坐臥を絶え間なく監視し、インターネットの迷宮から導き出してくれるアリアドネの糸はどこにも見当たらない。

 

 去り際の会話で、Tさんがカトリックの信徒であることを知った。

 「私たちにとっての回復の最終段階は、『永遠の命』に入ることかもしれませんね」

 送り出しながらつぶやいた。レントである。

Ω

 

 

 


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