散日拾遺

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人気作の「残念」

2017-03-20 14:14:46 | 日記

2017年3月20日(月)

 御多分にもれず推理小説は嫌いではなく、車内広告に「シリーズ一の面白さ」とあるのを見て、読んでみる気になった。もっとも『クロノスタシス』はシリーズ6冊目で、他の5作がどれほど面白いのか読んでいないからわからない。ある程度以上面白い推理小説は、読み始めて途中で置くのが難しい。これも一昼夜のうちに読みきってしまったから、総体として面白かったのだろうと思う。

 惹かれたもう一つの理由は「過労死・過労自殺」をテーマにしていることで、物語は文科省のとある部局に属する主人公が、ある医学者の考案した「過労死バイオマーカー」の信頼性を検証すべしという仕事を与えられるところから始まる。広告帯には「相手は過労死隠しのブラック霞が関」とあり、まだ記憶に新しい過労自殺事件や文科官僚の天下りなどが織り込まれていて、野次馬根性を十分満足させてくれる。

 主人公の折節の冴えた推理に舌を巻き、それらを人物の口に入れストーリーを構成する作家の頭の中は、どういう構造になっているんだろうと感心する。ただ、過労死のリスクを単一の数値に集約し、これに全く例外を生じない厳密さを期待するという発想はやっぱり無茶だし、マーカー考案に心血を注ぐ医学者の動機の説明もちょっとあり得ない。そんなことは歌舞伎の黒子と同じで「見ない約束」にすれば良いだけのことだが、残念なのは「統合失調症」という病気が現実のそれとはだいぶ違った形で描かれていることだ。

 作品のかなり早い時点から「統合失調症」が必ずしも正確とはいえない付記とともに言及されるのは、まだしも良いことにしよう。クライマックスに至ってこの病気がカラクリの重要な部分を担いつつ本格的に登場してくる、その部分に重大な誤解ないし無理解が含まれているのである。これは困るでしょう。作品を読んだ人は統合失調症という病気について、「ストレス性の心因疾患であり、妄想は現実逃避のための心理的防衛の産物である」と信じかねない。クロノスタシスの欠如やワーキングメモリーの障害が「重度の統合失調症の症状」と言いきる(P.340 )のも misleading である。

 「命を脅かされるほどの辛さから、妄想により現実逃避する。自分と同じ理由で苦しんでいる誰かが、犠牲になったと信じることで、上司を完全に悪者扱いできます。自分が悪いと思いがちな、真面目な人ならではの責任感を軽減し、一時的な待避を得てるんです。」(P.342)

 「でもきっと回復できます。もう現実を認識できているんだから。妄想なんか怖がる必要ありません。幸せはいつも自分の心が決めるんです。」(P.346)

 これは僕らが知っている統合失調症の現実とは大きくかけ離れている。そんなものではないのですよ、誰がこんな情報を著者に与えたのだろう・・・

***

 「クロノスタシス」は作品のタイトルになっていることから分かるとおり、書き手としてはトリック(?)を成立させる重要な決め手に使っているようである。ただ、僕のような凡庸な読み手はそうしたアクロバティックな仕掛けよりも、霞ヶ関を支配する分厚い閉塞感の中で若い女性主人公がへこたれることなく、頭脳の冴えと良心を頼りにかすかな光明を求めていく姿のほうがずっと共感できるし、それでほぼ十分なのである。どうしてもクロノスタシスを使いたければ、「クロノスタシス欠如症候群」とでも命名した架空の病気を想定し、その潜在的な危険を雄弁に書き込めば良かったのだ。そうすれば一種SF的な魅力を作品に盛り込めたかもしれない。入院だけで20万人近く、全国で70~80万人に及ぶ人々が現に苦しんでいる実在の病気をわざわざ例にとり、これについて不正確で偏った情報を散布する必要はなかった。

 面白く書かれた人気作であり、冒頭に「劣悪な職場環境による過労死が根絶されるよう強く願う」と記す通りのスタンスであるからこそ、残念なのである。

Ω

 

 


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