2025年4月24日(木)
心ならずも、ずいぶんほったらかしにしてしまった。
16年7か月在籍した本務先を退職するにあたり、大事なことや大事でないことなど何かと慌ただしく、時間がないという以上に気持ちのゆとりを持てなかったから…だろうか。そういうことにしておこう。
定年を待たずに退いたのは、職場に不満があったからではない。それどころか自分のようにクセも我も強い人間にとってこの上なくありがたい職場であり業務であったが、「潮時」という言葉の教える深い含蓄が人生にはある。
幼年期には父が転勤族だったため、三年毎に容赦なく生活が断絶され更新させられた。三年はまだ良い、ある時ある土地の生活をわずか一年で断ち切られたことは、予想外に重いしこりを後に遺しさえした。何ほどのこともなし、ストレス関連成長の利得の方が後から見ればよほど大きかったとしても、いささか不自然であったには違いない。又三郎よ息災か。
この度はそれとは違って、満を持しての適時転進。3月末日に退職の辞令を受け、一日置いて4月2日の朝はかつて覚えがないほどの解放感を寝覚めの床で満喫した。満願成就、満面の笑み、満また満々、ああ気持ちいい!
といっても日常のスケジュールには大きな変化がなく、おおむね午前は読み書き算盤、いやさPC、午後から診療という長年夢見た生活である。もっともコロナ禍以前からテレワーク主体だった職場のおかげで、このパターンはずいぶん前から半ば実現していた。客員としての仕事も当分続くのだし、給与が激減する以外とりたてて変わることもない。苦手な会議出席とあれこれの校務を免れたことが、これほどの解放感を生むものだろうか、もちろんそれだけではないはずだ…
などと思いめぐらすうち、あっという間に二、三週、さてそろそろブログでも更新しようかとページを開いて「あ」と目が点になる。


マジ、ですか?ひょっとして僕の退職を狙った?これって一気に人生が終わるってこと?
などなど、かなり病気な動揺が一瞬だけ瞼の裏で明滅する。その間、約15秒。まもなく正気が戻ってきた。
絶妙な同期 synchronization である。これは捨てがたい言葉で、「動機」や「動悸」と同音異義なのも面白い。planned happenstance などという言葉が連想され、ついでにこんな場面まで浮かんでくる。
「なぜ率直に言われんのです、これは奇蹟だと!」
「だって、たんなる偶然かもしれませんからね」
「まったくこの人たちの考え方ときたら!」スビドリガイロフは笑いだした。
江川卓訳『罪と罰』第6部 旺文社文庫版(下)P.333
奇蹟であれ偶然であれ、こうした同期を楽しまない手はない。ちょうどプロフィール欄の「放送大学教授」を変更するタイミングで、ブログそのものを引っ越して一新すべく上の方から号令がかかったのである。独りじゃないって、素敵なことね…
11月まで半年以上あり、具体的にどうするかはゆっくり考えよう。
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