散日拾遺

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韻のことなど

2017-09-27 11:02:34 | 日記

2017年9月27日(水)

 いったん戻って、先に転記した『雑詩』のこと。脚韻が素朴でたいへん見やすい。

   人生無根蒂 飄如陌上塵

   分散逐風轉 此已非常身

   落地爲兄弟 何必骨肉親

   得歡當作樂 斗酒聚比鄰

   盛年不重來 一日難再晨

   及時當勉勵 歳月不待人

 塵・身・親・鄰・晨・人で、日本語の音読みから容易に逆推できる。絶句や律詩のようなスキップルールもなく、そのあたりが「雑詩」たる所以でもあろうか。四声についてはどうなのだろうかと気になって調べると・・・

   塵(Chén)身(Shēn)親(Qīn)鄰(Lín)晨(Chén)人(Rén

 身と親は一声、他の4つは二声のようだから、そこまで揃えずとも良いのかな。そもそも -en と -in が混じってるのはどうなのかなど、生兵法が早速躓いている。

 「韻」は日本語ではあまり注目されないところで、アメリカ時代に学齢前の簡単な知的能力チェックを受けた長男が、他のことは全て花丸なのに rhyme (押韻)だけクエスチョンを付けられた。家庭で教えたり遊んだりしないから当然のことで、長男は何を聞かれてるのか意味が分からなかったらしい。逆に英語圏の子どもたちは教える(教わる)までもなくいつの間にか rhyme のセンスを身につけている。ビートルズの歌詞だって至るところ押韻だらけだ。("And I've been working like a dog./I should be sleeping like a log." dog と log 〜 「ア・ハードデイズ・ナイト」"She asked me to stay and she told me to sit anywhere, so I looked around and I noticed there wasn't a chair." any-where と chair 〜 「ノルウェーの森」)たぶん、英語だけではないのだろう。ドイツ語などは活用語尾の煩雑な規則性のおかげで逆に脚韻が踏みやすく、ズルいなと感じたものだった。活用語尾を大胆に切り捨てた英語ゆえ、逆に押韻のセンスが磨かれたということもあるだろうか。

 日本語の場合、文学の表看板や教科書では韻についてあまり語られないが、日本語が押韻に馴染まないかというと、そんなことは断じてない。「優しい yasashii」と「悲しい kanashii」、「怒る ikaru」と「叱る shikaru」、「葉っぱ happa」と「ラッパ rappa」と「河童 kappa」、同じ要領で母音による押韻の例なら無尽蔵に作り出せる。母音が5つだけに限られるうえ、母音の出現頻度が高いから、母音の語呂合わせには絶好の言語のはずなのだ。現に詩人は大いに活用しており、サブカルチャーの担い手らも然り。この手の遊びを、子どもたちにうんとやらせたら良いのではないか。河童が葉っぱを傘にしてラッパを吹いてると思えば、それだけで鳥獣戯画の一場面ができるあがる。

 頭韻は、これもあるよ、僕も使ったと威張っておこう。

 「明け烏勝ちて帰れと子らに啼く」 〜 「カラス」「勝ちて」「子ら」、語頭K音の連続に力を込めたのである。

Ω


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