散日拾遺

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マタイの「今日」、ルカの「毎日」

2013-09-30 09:47:07 | 日記
2013年9月29日(日)

午前中は教会、日頃足が遠のいている高齢の兄弟姉妹を招く日として、牧会委員会中心に礼拝を整えた。招きに応えて数組の方々が久しぶりに顔を見せてくださった。天に移された多くの先輩の面影が重なる。
高齢者は教会の宝、社会の宝と実感する。

教会は社会の縮図である。否、青写真だ。
ここで設計したものを、社会へ広げてきたいのだ。

***

新約聖書に四つの福音書があることを、以前は気にも留めなかったが、今になってその価値を痛感する。

四つそれぞれの意図があり、狙いがある。
基本的に同一の事件を伝えていながら、立場によって叙述の内容もスタイルも違ってくることが、ものすごく面白い。思考の訓練になるうえ、ひとつの真実がいくつもの顔をもつことを示して教訓的だ。

素材そのものも核心部分は共通だけれど、いわゆる「特殊資料」が加味されてそれぞれが個性的なものとなっている。事実を最も素朴に伝えるマルコ、旧約との連続性に意を用いるマタイ、世界史的で未来志向的なルカ、他の三者とは異なる霊性に立つヨハネ、これらを比較して読む楽しみは無上のものである。

中でルカ福音書の著者はギリシア人の医師と伝えられ、文の美しさ格調高さは比類がない。
同じ著者による続編にあたる『使徒言行録(使徒行伝)』は、教会形成の観点からは不可欠のもので、およそ何かを新しく作り出すときに文書というものが果たす役割の実証例ともなっている。

しかし、いま書き留めておきたいのは、もっと些細なことだ。

***

主の祈りの文言を、マタイとルカで比較してみる。
ポイントは多々あるが、ここでは一点に絞る。

わたしたちの日ごとの食物をきょうもお与えください。(マタイ 6:11)
わたしたちの日ごとの食物を日々お与えください。(ルカ 11:3)
(口語訳)

念のために別の訳で。

わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
(新共同訳)

見るとおり違いは一点だけ、マタイが「今日(も)」とするところを、ルカは「日々/毎日」としている。マタイは今日この日の一回性に注目し、ルカは日々の反復性に重きを置く。

この対照はギリシア語原文を見るともっとはっきりする。
日本語訳では違いは副詞一カ所に限定されるが、原文では「与えてください」という動詞からして違うのだ。

τον αρτον ημων τον επιουσιον δος ημιν σημερον.
(マタイ)
τον αρτον ημων τον επιουσιον διδου ημιν το καθ῎ημεραν.
(ルカ)

δος(マタイ)はアオリスト、διδου(ルカ)は未完了、前者はある時点における一回のこと、後者は継続ないし反復を表すものだから、当然ながら副詞σημερον(= today)とκαθ῎ημεραν(= every day)に対応する。
かつ、日本語ではうっかり見逃されかねない微妙な違いが、述語動詞と副詞のセットで明示されることによって原文では到底見逃しえない。
「翻訳は裏切り」という言葉が、ここでも思い出されるだろう。
翻訳担当者の罪ではない、ギリシア語を日本語に訳すとき、言語構造の違いゆえに起きざるを得ない強調点の逸失で、これを補正しようとすればことさら何かを付加しなければならない。

もちろん、マタイとルカと、どちらが正しいかという問題ではない。
マタイの表現からは、「今ここで」の切迫感、今日を生きる者の必死・ひたむきが伝わってくる。山上の説教の中で「明日のことを思い煩うな(=今日に集中せよ)」とイエスに語らせる(マタイ 6:34)のと一貫した姿勢を見てとることができる。
ルカの言葉からは今日も明日も、来る日も来る日も苦悩を背負って生きねばならない人々の、安心への希求が伝わってくる。歴史と未来を指向するルカには、真にふさわしい。
微妙に異なる複数の証言から、ひとつの真理が立体的に浮き彫りになること、四福音書の恵みである。

*****

もう一カ所みておく。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
(ルカ 9:23、新共同訳による。以下同じ)

ここでも「日々」はκαθ῎ημεραν、動詞の時制は注意すべきところで、「自分を捨て αρνησασθω εαυτον」と「自分の十字架を背負って αρατω τον σταυρον αθτου」はアオリスト、「従いなさい ακολουθειτω」は未完了。
つまり「自分を捨て、自分の十字架を背負う」のは一回的な決断、「主に従っていく」のは日々反復の営みということになる。

並行箇所をマタイとマルコで確認する。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
(マタイ 16:24)

日本語訳では同じになっているが、マタイの「捨てる απαρνησασθω」はルカの「捨てる αρνησασθω」に分離の接頭辞「απ」のついた形である。「捨て去る」といった強意形とも見えるが、実際の用例では特に区別もないようだ。
この点を除いて両者の間に動詞の違いはなく、ただルカにおいて「日々 καθ῎ημεραν」の語が付加されている。

ついでながら、これら「捨てる αρνησασθω 、απαρνησασθω」には「(関係を)否認する」といった意味がある。イエスが死刑判決を受けた夜、ペトロが庭でイエスとの関係を疑われ、懸命に「否認した」というところで使われる動詞である。
「自分自身を捨てよ」と命じられた主に対して、土壇場のペトロは自分の命を守るために主を「捨て」た。この反転の蝶番(ちょうつがい)にあたるのが、動詞「αρνησασθω 、απαρνησασθω」である。

次にマルコ

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
(マルコ 8:34)

「わたしについて来たい者」と「わたしの後に従いたい者」は等値できる。
したがってこの箇所は事実上マタイと完全に同文(というよりマタイがマルコを踏襲した)で、「日々」の語はない。
ルカがこれを加えたのだ。

*****

「主の祈り」において、また「十字架を負って従う」ことについて、「日々 καθ῎ημεραν」の語を繰り返し加え用いたルカの意(こころ)に思いを巡らす。
点の輝きが線として伸びていく、歴史の明日のその向こうに神の国を仰ぎ見る、そんなことでもあっただろうか。

何かしら新しいものが、そこに確かに生み出されている。

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