散日拾遺

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見えないものを見る力

2023-11-18 17:26:30 | 聖書と教会
2023年11月18日(土)
 「老い」をテーマに話す機会が増えている。
 「老い」を肯定的に語ろうとすれば、「結晶性知能」「老年的超越」それにエリクソン言うところの「統合」といったところがヒントになるが、それらに通底するものとして「見えないものを見る力」を挙げても、あながち外れてはいないだろう。
 「たいせつなものは目に見えない」という星の王子様へのキツネの献辞があり、「昼のお星は目に見えぬ、見えないけれどあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」という金子みすゞの詩句がある。
 それらを見る魂の視力は、肉体の視力と入れ替わりに老年期に成長すると言ってみたい。すぐれてスピリチュアルなことがらでもある。
 
 関連して思い浮かぶ聖書の言葉がある。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
『ヘブライ人への手紙』11章1節(新共同訳)
 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
『へブル人への手紙』同上(口語訳)
 寸分変わりないようだが、「見えない」事実か、「まだ見ていない」事実かの違いがある。原文は下記。
 Ἔστιν δὲ πίστις ἐλπιζομένων ὑπόστασις, πραγμάτων ἔλεγχος οὐ βλεπομένων.
 
 βλεπομένων は動詞 βλεπω の一人称複数現在分詞。βλεπω は英語の see とほぼ等置されるが、「見る能力をもつ」というニュアンスがより強いようで、新共同訳の「見えない」はそのあたりを汲んでいるのであろう。
 口語訳の「まだ見ていない」は違う方向へ読み込み過ぎの感じがする。文語訳は「それ信仰は望むところを確信し、見ぬ物を真実(まこと)とするなり」と歯切れよく直訳しており魅力的ではあるものの、日本語の「見る/見ない」は意志的な意味合いが強く、「見ようとする/しない」の方向に話が傾いてしまう。ここはそれより、見ることができるかできないかの方が問題なのだろう。
 そういうわけで「見えない」は良いとして、当該事実がその性質としてそもそも不可視なのか、それとも今のわれわれがそれを見る能力をもたないのか、そのあたりは気になるところである。原文を素直に読むなら後者と思われ、それが地上の肉体に閉ざされた者の限界であるけれども、信仰はその限界を超えてその事実を「確認する/真実(まこと)にする」ことを促すというのである。
 核心をなす二つの言葉。
 ὑπόστασις : 「下に置く」の原義から転じて、① 土台、実在、実体、② 確信
 ἔλεγχος :動詞 ἔλεγχω に由来する名詞。この ἔλεγχω は ①(罪、過ちを)責める、② (真相を)あばく、摘発する、③ きびしく咎める、 ④ 鍛錬する、などとかなり厳しい言葉である。ἔλεγχος は「確認、確証」と訳されるが、語源から考えれば「徹底的に吟味・検証したうえで真実性を認める」といった強いニュアンスでなければならない。
 そのような意味で「望んでいる事がらを確信し、今は見ることができずにいる事実を真実と確認する」者の霊的視力たるや、驚くべきものとせねばならない。
 そうした能力の日々育つ老年期であるならば…


Ω







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