2023年6月19日(月)
「すぐれたお坊さんの唱えるお経にはみごとなものがある。真言経や般若心経など、耳を傾けているだけで心に沁みるものがある。キリスト教の教会でも、かつて用いられていた文語訳聖書を明治生まれの牧師さんは堂々と朗読していた。最近の私たちの世代は、マシュマロのように骨のない口語訳聖書を、いたるところまちがえながら読みあげて平気である。これは国語力の衰弱以外の何ものでもない。」
小塩節『ドイツ語とドイツ人気質』講談社学術文庫(P.57-58)
たまたま家庭で話題になったので、久しぶりにページをめくってみた。小塩節先生は1933年生、2022年没。残念ながら直接お目にかかる機会がなかったが、ドイツ語講座などで聞き慣れた深く柔らかい声と朗らかな語り口が記憶に鮮やか、世代・時代を彩る背景の重要な一部である。そう言えばアルフォンス・デーケン師やグスタフ・フォス師などと「ドイツ」や「キリスト教」という切り口で接点がなかったものか。
「最近の私たちの世代」について師が慨嘆されたのは1980年代のことと思われる。口語訳聖書を「マシュマロのように骨のない」と評する師が、新共同訳聖書についてどのように感じておられたか、伺ってみたいものだった。
上記に続けて以下のくだり。旧約には師をしてかく言わしめるものがあり、思想内容のみならずその形式に注意を払う必要がある。聖書朗読にあたる礼拝司式者も留意すべきところ。「仮に日本語訳で読むとしても」と付け加えておこう。
「聖書はお経と同じだ、とは言えぬかもしれない。せめてたとえれば旧約聖書は全篇これ「詩」篇だと言うことは許されよう。だとすれば、詩の朗読と同じように、正確かつ音楽的でないといけない。」
上掲書(P.51)
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