散日拾遺

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月下氷人

2020-07-27 05:37:10 | 日記
2022年7月25日(土)~26日(日)
 新聞の週末版に載る、いつものパズル。四字熟語が20個あまり羅列され、虫食い部分の字を埋めるものは、2分ほどの目視で正解はわかったが、埋めていくと耳慣れない言葉がずらずら出てくる。
 横行闊歩、天空海闊、松風水月、水天一碧・・・今回のイメージはそういうことか、少々強引だ。畳一畳ほどもある大きな紙を拡げ、一面に碧緑を流したら気もち良いだろうか。どう細工しても、木陰をわたってくる涼風を胸いっぱいに吸い込むには及ばない。
 近隣のK教会に囲碁好きが集まると聞き、出かけて2局ほど教わった。行きはローカルな私鉄の狭い駅間をジグザグと7つ8つ辿り、帰りは4kmほどの道のりを歩行してみる。不快きわまる蒸し暑さの中、おとなしく歩けばよかったものをジョギングに欲を出したら、中原街道の信号が変わりかけて急いだところで、内転筋にずんと痛みが走った。体が硬いのだから、いきなり走ってはいけないのに。折から降り出した雨に汗を洗われながら、脚を引きずって2km歩いた。

 うたた寝に伸びをした途端に、飛び上がって目覚めることあり、情けなくも自宅待機する日曜の朝。お勤めを済ませて帰った家人らが説教のおさらいを聞かせてくれる。第4週はM師のマタイ伝講解で、今朝は20章の「ぶどう園の労働者」の譬え、朝9時から働いた者も夕暮れ寸前に滑り込んだ者も、等しく1デナリオンの賃金を得たという例の話である。
 「夕方まで来ることのできなかった者たちの苦労」という視点に、少し驚いた。恵みは等しく与えられるもので、努力によって多寡の変わるものではないという本線ばかりを読みとってきたが、言われてみればなるほどそうでもある。
 15節の「わたしの気前のよさをねたむのか」は教わらなければ訳せないところで、原文は下記である。
 【希】 ο οφθαλμός σου πονηρος έστιν ότι εγώ αγαθος ειμι;
 【羅】 oculus tuus nequam est, quia ego bonus sum ?
 αγαθος/bonus を「善良な」ではなく「気前のよい」とするのも、οφθαλμός πονηρος/oculus nequa すなわち「悪い目」を「ねたむ」とするのも、飛躍のようだが確かな根拠があるらしく、翻訳間の揺らぎがない。とりわけ英訳のリズムが韻を踏んで軽やかである。
 【英】 Or are you envious because I am generous ?

 「ねたむ/ねたみ」は聖書の倫理の中でことのほか重要な言葉であるが、それが「悪しき目」とイメージされるのが興味深い。
 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば全身が明るいが、濁っていれば全身が暗い。」(マタイ 6:22)
 目がそのようなものであるとすれば、同じ20章の末尾で二人の盲人の癒しが語られる場面は、読み流せないことになる。
 「何をしてほしいのか」「主よ、目を開けていただきたいのです」
 (マタイ 20:32-33)

 このあたりは既に受難の時が目前に迫って高まる緊張の中、語られる譬えや為される業のそこかしこに終末論的な超倫理がびりびり響いて胸苦しいようだ。そんな時でも脚は痛むし、腹は減る。日はまた昇り、桃は美味。四字熟語の最後に残ったのは「月下氷人」である。

Ω

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