散日拾遺

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ピカソのフクロウとピカソの言葉

2020-12-08 10:56:17 | 日記
2020年12月2日(水)
 人が足を運んで顔を合わせるという行為にはリアルな価値があって、なかなか代償の効くものではないが、学生指導などは背に腹代えられずオンラインで実施することになる。これにはプラスの副産物もあり、遠隔地の学生が交通費や日程を気にせず参加できるという効果の大きさは、容易に想像のついたところである。
 加えて、質疑応答の中で「それについてはこんな本が書かれていて」などと思いつきで言った場合、現実の教室では書肆情報を提供するのが関の山だが、研究室や自宅ならば「ちょっと待ってて」と書棚から取ってきて見せることができる。もともと雑談に流れることが多いので、この余得が案外大きい。
 2日(水)のゼミ指導では、何かのはずみでピカソの話になった。

 「ちょっと待ってて」と取ってきたのは、いつだったかどこでだったか、何しろかなり昔に買い求めた絵はがき二葉である。
 掌のフクロウが創り手と何と瓜二つだこと。とりわけ目が!しかしこちらは実はオマケで、本題は次のものである。
 
 なぜかフランス語で書かれてある言葉を、僕は長らく少々の誤訳と共に記憶していた。
 「自分の手から何が創り出されるか、あらかじめ完全に分かっているとしたら、創るという行為にいったいどんな意味がある?」
 つまり faire を「創造する」と脳内変換していたのである。ピカソにとっては行住坐臥すべてが創造行為であったろうから、あながち誤訳ともいえないが、原義は行為一般について言ったものに相違ない。
 そして exactement の文字が強調されている。凡人我らも自分が何をしようとしているのか、大凡のところは分かっている。しかし厳密に、精確に、ことこまかに、すべて完璧に分かっているわけではない。微妙な攪乱や逸脱が思いがけない方向へ行為を導き、予想だにしなかった結末へ至ることは珍しくない。
 まるで見当がつかないわけではないが、すっかり見当がついているわけでもない、その間(あわい)に妙味が生まれる、だからこそ、考えるだけでなく実際に行為し創作する意味がある・・・
 そんな能書きを垂れながら、Zoom の画面越しに二葉の絵はがきを学生たちに示して見せた。
 そうしたところ・・・
to be continued

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