散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

血統(ちすじ)ということ ~ 中村哲医師の祖父と伯父

2020-01-04 13:47:52 | 日記
2020年1月4日(土)
 これも愛媛新聞の紙面から。
 アフガンで没した中村哲医師の、母方の祖父が松山出身。玉井金五郎(1880-1950)というこの人物が相当の傑物であったらしい。旧温泉郡潮見村ミカン農家の三男として生まれた。(僕のところは同じ旧温泉郡の河野村で、潮見村は10kmほど南の松山よりである。)生来進取の気性に富み、福岡に移って港湾労働者として働いたが、義侠心もあれば人を束ねる才覚もあったらしい。港湾労働者を守る「玉井組」と呼ばれる一種の組合組織を作り、若松市(現北九州市)の市議会議員を6期勤め、同地で没した。
 玉井金五郎の長男が作家・火野葦平(1906-60)である。『糞尿譚』というタイトルからして尋常ならぬ作品で芥川賞を取り、『麦と兵隊』を初めとする兵隊三部作がベストセラーとなった。自伝的作品とされる『花と龍』に父のことが描かれており、火野自身、著述の傍ら玉井組の二代目を務めた。中村哲医師は玉井金五郎の孫であり、火野葦平の甥(妹の子息)ということになる。
 血は争えない、などと一言で済ますものではないだろうが、それでもそう言いたくなるものがここにある。「中村医師と金五郎を見ると、考え方、行動パターン、風貌までそっくりで重なる部分が多い」と地元史家の言が紹介されている。なるほど風貌はよく似ている。
 記事のタイトルは「人助けの精神 松山にルーツ」とあり、どこまでもお国自慢だが新聞としては当然のところ。論理的に正しいかどうかに関わらず、思い込むことが人を作るということは確かにあるから、これはこれで良いとしよう。
 それよりも、この一族に火野葦平という個性的な作家が生まれていることのほうが僕には気になる。伊豫とりわけ中豫は、なぜだか不思議に文筆家を生む土地である。

愛媛新聞 2019年12月15日(日)5面

・・・確かに似ている。二人だけでなく、写っている男性の全員が!

Ω

干支送りと昔のお正月 ~ 地方新聞の紙面から

2020-01-04 07:55:19 | 日記
2019年12月31日(火)に感じたこと:
 地元新聞ならではの良さ、というものがある。分かりやすいのはスポーツなどで地元チームや選手を応援することで、全国紙にも地方版のページはあるが迫力が断然違う。プロゴルファーの松山英樹が松山市出身であることを、恥ずかしながら年末の愛媛新聞で初めて知った。
 高校ラグビーの県代表は松山聖陵。一回戦は快勝したものの、二回戦で優勝候補の東福岡と当たって14-100と大敗。それでも地元紙は、かねて練習を重ねてきたプレーが決まってこの強豪からトライを挙げたことに注目し、健闘を称えている。親バカの拡大版のようなものだが、親バカではない親なんかそもそも存在意義がない。
 もう一つ面白いのは、当然ながら当地の事情が細かく伝えられ、当地の人々の声が伝わってくることである。その中に、首都圏とかけはなれた田園地帯ののどかさや、そういう土地だけに生き残った伝統の名残といったものがある。

愛媛新聞 2019年12月31日(火)19面

 「西予市宇和町の田之筋地域では、稲わらで作られたイノシシとネズミによる干支送りが見られます。そばには恐竜「ブラキオサウルス」の親子もいました。(15日撮影)」
宇和島市在住・S.M.さんの投稿写真と記事

 来年はネズミから牛へのバトンタッチ、闘牛の本場だからさぞまた楽しいことだろう。

***

 この写真のすぐ隣の記事が、また興味深い。民俗を伝える貴重な資料と言えそうである。

◇ 私の子どもの頃は、新年をもって一つ年をとると考えていた時代だったから、お正月が来るのが待ち遠しかった。が、農村には厳しいしきたりがあり、正月は男の出番が多かった。
◇ 元日の朝の火おこしは長男と決まっていた。前夜から用意していたまきで火をおこし、雑煮を炊く。そして、その雑煮を家の守り神にお供えする。守り神とは、わが家では神棚、仏壇、大黒柱、お水神さん(井戸)、蔵、駄屋、お風呂場である。木のわんに入れてお供えし、お下がりを家族全員でいただくのである。それが終わればお日さんが昇っている間に、近隣や親戚へのあいさつ回りである。雪の時などおっくうであったが、行くと「よく来た」と喜んでくださり、決まってミカン二つと干し柿を頂いた。
◇ 当時の交わりをもった方々は一人もいなくなったが、私の心の中には生きている。年の瀬を迎えると、つい昨日のように思い出すのである。
久万高原町・H.S.さん(86、農業)

***

 文中に駄屋とあるのは、よく分からない。「納屋」の誤記かとも思うが、「駄」は「下駄」「足駄」に見る通り履き物に通じるから、農家では特に大事なその種のものを収めた区画でもあろうか。新聞社に問い合わせてみようかしらん。
 いずれ年長者の語り置くことに無駄は一つもないものだ。
 
Ω

 追記: 「駄屋」は誤記にあらず、「納屋」「物置」の意味である由。父の叔父、母の父など、古老が使っていたのを父が聞き覚えていた。投稿者は久万高原町、つまり同じく中予の人である。愛媛新聞が注釈なしで載せるところを見ると、県内では通用する(していた)ものと思われる。他所ではどうなのかな。
 ちなみにこの言葉をネット辞書で引くと、こんな解説が出てくる。「荷駄」という言葉や、大和は内陸で塩の運送がとりわけ重要であったろうことなど、いろいろと連想が動く。
 
〘名〙 中世の大和で、塩の運送・仲介業者。
 ※大乗院寺社雑事記‐明応七年(1498)閏一〇月九日「分塩駄売買立野以下馬共入二奈良一、一疋別公事馬口銭進上、自二駄屋一取二進之一」

ΩΩ