2017年1月20日(金)
『細胞の社会』というネーミングが、高校2年当時はかなり新鮮だったのではないかと思い当たった。
「細胞」は生物-ミクロ、「社会」は人工-マクロ、「自然科学と社会科学」などと分節していく流儀では、接続するどころか遙か両翼に位置して接することもないだろう。その二つを結びつけることは今ならさほど目新しくもないが、当時は新鮮だった・・・のではないか。思えば今どきは自由になったもので、自由になったのは時代の空気か、自分の中身か、その両方かなどと考える。いずれにせよ当時は進路選択が最大の難問、文系理系の二者択一(これには強く反発したし、今でも基本的に「意味が分からない」)を初めとして、既存のもっともらしい樹状図の枝を辿り、多彩な分業システムのどこかに自分を当てはめる以外の選択肢はないもののように思われる。さあどれを取るか、どれをか取るべしと迫られる閉塞感の中に、全く違う物の見方もあることを示して一陣の風が吹いたと感じたに違いない。当時、「科学の統合」という幻を語る人もあった。実は自分は精神医学にその夢を見、今だにその夢を食って生きている。
イデオロギーについては、少し言葉を足さないといけない。
岡田氏が言及しW君が受けとったのは、ルイセンコに代表される「共産主義イデオロギー」の科学破壊のことに違いない(http://brh.co.jp/s_library/interview/30/)。もちろん、そんなものを擁護する意図も趣旨もさらにない。僕がその時代に学んだと信じるのはもっとマジメかつ微妙なもので、一般に人間のいかなる思想もイデオロギー性や党派性を免れないということだ。そして科学もいったん応用の領域に踏み込むと、そのような意味での一つの思想として動き始める。もっとも、「イデオロギー的に脚色された言説はそもそも科学ではない」と考えるか、「応用科学にはイデオロギー的な側面がある」と考えるか、論の立て方は難しい。
原発問題などはもっと素朴なレベルの問題で、議論に必要なデータが一律に広く公開されるのではなく、きわめて選択的に供給され頒布される印象を免れない。もとより、そうした選択に関して政治的経済的な圧力が介在することは子どもにだってわかる。これだって一種のイデオロギー問題である。一般に、主張の内容は常に主張する人間の社会的立場との関わりのもとに形成される。そして「自分はそんなものに毒されていない」と目を剥くのが大人なのではなく、自分がどんな立場のどんな影響にさらされているかを直視し吟味できるのが成熟の証なのだ。マルクスの思想とフロイトの思想はいずれもこうしたプロセスを本来のテーマとしているが、面白いことに両者とも21世紀に入ってまるで流行らなくなっている。現実にマルクスやフロイトを奉じる人々の魅力のなさが一因かと思われる。どちらも人を自由にするはずなのに、実物見本はその反対の例ばっかりだ。
22世紀に人類がなお生き延びており、そこに両者が復権したりしたら面白いことだろうと想像する。
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