2016年1月1日(日)
池下さんから、はがき詩信の元旦特別号(?)が届いた。「気になる詩」のコーナーに、気になる詩が載っている。
『くびはくび』
くびはくび/あしはあし/べつの人生
武田肇という人の『られぐろ』という詩集に載っているんだそうで、くりかえし読んだというこの一冊のことを、「その過半が分かる気もするし、過半が分からない気もする。分かった気がした一篇が、次に読んだときには分からなくなったり、その逆になったりすることもある。それが、この詩集の魅力のひとつであるのだろう」と池下さんは書いている。この詩集は「プロローグとエピローグのたった2章からなる長編詩」でもあるのだそうだ。
「られぐろ」って何だろう、l'allegro かな。調べてみればジョン・ミルトンにそういうタイトルの詩集があるようだ。イタリア語で「the happy man」を意味するらしい。起き抜けのアタマで分かるとも分からないとも分からずくり返し読み返して、ふと予感というのか、そうだったら面白いなと想像することがあった。
で、10:30に礼拝堂で週報を見た瞬間、思わず口笛を吹きそうになった。本日の聖書箇所、第一コリント12章12~26節である。
『体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っている。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるだろうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるだろうか。もし体全体が目だったら、どこで聞くのか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぐのか。/だから、多くの部分があっても、一つの体なのである。目が手に向かって「お前は要らない」と言うことはできず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」と言うこともできない。/体に分裂が起こることはなく、各部分が互いに配慮し合っている。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ。」
同じ日、同じ午前に、こんなことが同時に起きる。これだから面白いというのである。武田氏はコリント書を踏まえて詩想を練ったのか、そうかもしれないし、そうでないかもしれない、どちらであっても面白い。コリント書と正反対のことを主張しているかと言えば、これまたそうとも限らないだろうことがなおさら興味深い。プロローグとエピローグ、プロメテウスとエピメテウスみたいなものではないかと思われる。
Ω