散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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くびはくび あしはあしなり されど仲良き

2017-01-01 19:33:48 | 日記

2016年1月1日(日)

 池下さんから、はがき詩信の元旦特別号(?)が届いた。「気になる詩」のコーナーに、気になる詩が載っている。

 『くびはくび』

 くびはくび/あしはあし/べつの人生

 武田肇という人の『られぐろ』という詩集に載っているんだそうで、くりかえし読んだというこの一冊のことを、「その過半が分かる気もするし、過半が分からない気もする。分かった気がした一篇が、次に読んだときには分からなくなったり、その逆になったりすることもある。それが、この詩集の魅力のひとつであるのだろう」と池下さんは書いている。この詩集は「プロローグとエピローグのたった2章からなる長編詩」でもあるのだそうだ。

 「られぐろ」って何だろう、l'allegro かな。調べてみればジョン・ミルトンにそういうタイトルの詩集があるようだ。イタリア語で「the happy man」を意味するらしい。起き抜けのアタマで分かるとも分からないとも分からずくり返し読み返して、ふと予感というのか、そうだったら面白いなと想像することがあった。

 で、10:30に礼拝堂で週報を見た瞬間、思わず口笛を吹きそうになった。本日の聖書箇所、第一コリント12章12~26節である。

 『体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っている。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるだろうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるだろうか。もし体全体が目だったら、どこで聞くのか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぐのか。/だから、多くの部分があっても、一つの体なのである。目が手に向かって「お前は要らない」と言うことはできず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」と言うこともできない。/体に分裂が起こることはなく、各部分が互いに配慮し合っている。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ。」

 同じ日、同じ午前に、こんなことが同時に起きる。これだから面白いというのである。武田氏はコリント書を踏まえて詩想を練ったのか、そうかもしれないし、そうでないかもしれない、どちらであっても面白い。コリント書と正反対のことを主張しているかと言えば、これまたそうとも限らないだろうことがなおさら興味深い。プロローグとエピローグ、プロメテウスとエピメテウスみたいなものではないかと思われる。

  

Ω

 

 


本日還暦、心機一転童心新タナリ

2017-01-01 08:44:42 | 日記

2017年1月1日(日)

 明けましておめでとうございます。

 暦のことなど振り返る前に、年をまたいだ疑問を解決しないと落ち着かない。晋の天子が落ち延びる際、『千字文』が車の雨漏りで水浸しになったとの逸話は、「いわゆる永嘉の乱で、都が今の南京(当時の建康あるいは建業)に移ったとき」とのこと、わが国に伝わった古写本の序文にある由、小川環樹解説が示している(P.389)。するとこれは西暦311年前後のことで、「宋の文帝に追われて丹陽に避難する途上云々」という李注の記載はどうにも合わない。丹陽は南京の100kmほど東に今も同名で存在するから場所は良いとして、「宋の文帝(在位424-53)」は一世紀余り後の存在である。永嘉の乱は晋(西晋)が滅んだ時のことで、文帝は東晋を滅ぼした宋の二代目なのだからね。どうやら李注が混乱を来したものらしい。そういうこともあるでしょう。

 さてと、あらためて新年に向き合う。逃げも隠れもしない、還暦なのだ、自分でも信じられないが。「還暦」という発想は数え年システムと対応するもので、生まれ年の干支に回帰するから「還暦」という。満年齢ではないのである。今年の干支つまり僕の干支は丁酉(ひのと・とり)、本日元旦をもってめでたく還暦というわけだ。しかしどうも実感がわかない。

 もっとも、年取るばかりでイヤなことだと思っていたのが、ふとしたことで少し前に気もちが変わった。ぐるっと一周して人生を一渡り見たことにさせてもらおう、この後は第二巡を好きに作っていく資格ありと思えば良い。いろんなことに手を出してきて、ここにひとつ望みあり。照れくさいから今日のところはブログには書かない。まずは主日礼拝で姿勢を整えてこよう。姿勢は死生に通ず、市井に至誠あり、などと軽口を叩きながらいってきます。

 丁酉元旦一陽来復、心機一転童心新タナリ。

Ω