散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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トト姉ちゃんの不思議/岡山は6月だった

2016-06-30 21:46:22 | 日記

2016年6月30日(木)
 「トト姉ちゃん」が昭和20年3月10日を迎えている。実は昭和10年代に小橋家が深川へ移ったあたりから、ずっと気になっていた。いずれこの地域は空襲で全焼する。その時、青柳商店や森田屋の人々をどんな運命が見舞うのか。
 なので、森田屋一行が上州高崎へ、青柳のおかみが木曽方面へ移ったときには、我にもなくほっとした。高崎は空襲に遭っているが、深川のそれに比べればまだしも生存を期しやすかったと思われる。3.10は「300機のB29による約2時間の空襲」と聞いて、あらためて驚いたのはその効率の良さである。軍需施設をピンポイントで叩く精度をもっていた米軍だが、この日には全く別の高いスキルを示して見せた。東京の周囲から中央へ向かって火の輪を縮め、できるだけ多くの人間をできるだけ短時間で焼き殺す、面としての緻密さである。それを指揮したカーチス・ルメイは「戦争に負けたら戦犯だ」と自ら認める大量虐殺のスペシャリストだったが、戦後1964年に日本政府は勲一等旭日大綬章という最高の栄誉をもって彼に報いた。こんな情けない政府が歴史上ほかにあるかどうか僕は知らない。通例に反して昭和天皇が親授(天皇自らが勲章を授けること)を拒んだこととあわせ、以前一度書いた。(2015-09-26 半藤氏のオピニオン/カーチス・ルメイ叙勲のこと)何度書いてもバカバカしくて泣けてくる。
 さて、不思議の一つは「目黒」の住宅街に引っ越した小橋家が3月10日にほとんど損害を被っていないことである。確かに目黒は将軍家の鷹野に使われたイナカだったが、昭和20年には既にそこそこの住宅地が育っていた。柿の木坂から都立大学駅周辺も、昭和初年までは犬が幽霊に驚くような寂しい場所であったことを戸川幸夫氏が『イヌ・ネコ・ネズミ』に書いているけれど、昭和20年には住宅街がきれいさっぱり焼き払われ、「平町の坂の上の家あとが、500mはなれた駅のあたりから遮るものなく見通せた」と教会のH姉が教えてくださったのを覚えている。
 変だなと確かめたら、目黒エリアで空襲が本格化したのは昭和20年4~5月以降であったのだ。(目黒区における戦災の状況 http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_14.html)
 そうとは知らなかった。軍需施設も人口稠密地帯もすっかり焼き尽くし、あとは民家だろうが何だろうが人のいるところを虱つぶしに狙ったわけで、「これから」なのでした。ネタばらしでごめんなさい。

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 岡山で一切を準備してくださったN姉と、その後ときどきメールをやりとりしている。例によっての coincidence で、空襲のことを思い巡らしていたら下記のメールが来た。許可を得て転記する(一部改変)

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 このところ、少々忙し過ぎでした。特に昨日は「6・29岡山空襲」(1,737名の人が亡くなりました)の日でした。私は実行委員の一人に加えていただいているので毎年写真展の番をします。展示場に9時間半いて、案内や説明をしたり、お話を聞いたりしています。さすがに疲れ果てました。岡山の出身ではないので(石丸注:Nさんは私と同じ伊豫松山の人。むろん松山も丸焼けに焼けた。)「その時あなたはどこに居たの?」などと聞かれると答えられないのです。それでも若い人には戦争にならないようにと話し、年寄りからはもっぱら「あの時こんなだった、あんなだった」と証言を聞く側に回ります。
 今年一番衝撃だったのは、4歳の子供と2歳の子供、それに赤ん坊を連れて空襲の中を逃げた人の話でした。赤ん坊をおぶって、2歳の子の手をつなぎ、もう片方に荷物を持ち、4歳の子は後ろからしっかりとついてくると信じて一緒に走ったけれど振り向いたらいなかったと。しっかりした子で名前も言えるし住所も言える子だったからきっと帰ってくると信じたけれどそのままになったと。悔やんでも悔やんでも取り返しがつかず一生悔いている、その子の姿を忘れられず、ずっと覚えているというお話でした。
 子供たちを見つけると話しかけ、何とか写真展と紙芝居展の前で止まってもらおうと話しかけました。退職した女性教職たちが、子供たちにわかるように紙芝居を作ろうと思い立ったのが10年前、二人の絵の先生に描いてもらったものがよくできています。
 いつも岡山空襲の写真展の時は何かをセットにしています。3年前は原発の写真展、樋口健二さんの写真を展示しました。彼曰く《動物や花の写真には賞をもらうけれど、原発などというテーマでは何ももらえないで来た、それが福島原発で世界の注目を浴びた。「原発の写真を撮り続けているのは樋口だけか?」と言われ、国際賞をいただいた。》
 出会いは嬉しいことです。

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 Nさんから教わったことは他にもあるが、それは項をあらためて記す。

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『三銃士』再読のこと

2016-06-30 21:42:57 | 日記
2016年6月30日(木)
 日曜の晩にBBC制作の『四銃士』をやっている。もちろん『三銃士』のリメイクだが、原作のストーリーは好き勝手に改竄され、誇張された暴力シーンがやたら多い。ルイ13世はバカ殿、アンヌ王妃は劣情の奴隷、ロシュフォールは倒錯者、銃士隊員らは剣より銃が得意で ~ だから「銃士」というのか ~ 西部劇かミリタリーアクションみたいにむやみに撃ちまくる。『シャーロック』もそうだが、天下のBBCも今どきの悪弊から自由ではないんだね、残念。
 気が治まらないので原作を再読してやろうと思い立ち、御茶ノ水の帰りに角川文庫版を買ってきた。これが幼年期の記憶通りに面白く、帰りの電車の中で眠気を忘れた。

「卑怯者め、卑怯者め」
「まったく卑怯なやつでさ」宿の亭主がダルタニャンに近づいてきて、こうつぶやいた。寓話の中の鷺が蝸牛にしたように、こんなお世辞で青年と仲直りしようというわけである。
(上 P.24)

 おそらくこのボヘミヤ女の秘薬がきいたのにちがいない、あるいは医者がいなかったのもよかったのだろうか、ダルタニャンはもうその晩にはちゃんと立つことができるようになり、翌日にはほとんどなおっていた。
(上 P.25)

 それにトレヴィルは、敵を犠牲にして生きられないときは味方の犠牲において生きていくのがご時世の、その当時の戦争というものを実によく心得ていた。だから、彼の隊士たちは、彼以外にはなにものの名にも従わないという、悪魔の生まれかわりのような男たちばかりで組織されていたわけである。
(上 P.34)

 何がといって、この筆致の軽さ速さ鋭さが楽しくて良い。皮肉の辛さが何とほどよく効いていること!サキとデュマを対比するのは無茶というものだが、あれではなくこれこそ無類に好もしい。ユーモア vs ウィット?そうではないよな、たぶん。
 翻訳の問題はあるかもしれない。そう思って見直せば、角川文庫版『三銃士』の訳者・竹村猛氏は1914(大正3)年生まれである!道理で一行一行なつかしいのは、幼年期にもこの訳者の文を読んだからかもしれないと思ったりするが、何しろ少しも古さを感じさせない。
 ところで、BBCの『四銃士』(「四」銃士は日本語訳の加筆で、英語題は"Les Trois Mousquetaires" の「三」を取って英語表記に変えた"The Musketeers" である)で一つ面白いと思った修正は、ポルトスが黒人とのハーフとした設定である。大デュマ自身の出自と重なり、これはある種のリアリティを原作に付加している。
 もうひとつ、剣士たちの物語なのになんで「銃士」なのかと思っていたが、よく見れば"mousquet/musket
”つまりマスケット(銃)だったんだね!
 でも原作ではそんなに撃ってなかったよ。あくまで誇り高き剣士たち、宮本武蔵や新撰組の面々とどっちが強いだろうと、幼い頭で「真剣に」考えたものだった。

   
 
 Ω