2013年11月23日(土)
長い一日も夕にさしかかり、自室で一息。
書かずもがなの注釈だが、治安維持法について。
1900年に制定・施行された治安警察法(精神病者監護法と同年だ!)は、日清戦争後に高まりつつあった労働運動を取り締まるためのものだったが、1917年のロシア革命などを受け、1920年頃から同法の強化改正が論議されていた。大正デモクラシーの時期に重なってすんなりとは進まなかったが、1925年(大正14年)にソ連との国交が樹立されると共産主義運動に対する懸念も高まり、治安維持法が同年4月に公布、5月に施行。普通選挙法との抱き合わせであったが、治安維持法は即時効力をもったのに対し、普通選挙の実施は1928年まで延期された。
1925年の規定は「国体変革」と「私有財産制度否認」に対して最大10年の懲役または禁固を課すものであったが、1928(昭和3)年の改正では「死刑または無期もしくは5年以上の懲役もしくは禁固」と著しく厳罰化。1941(昭和16)年の全面改正でさらに強化された。
治安維持法によって検挙された者は通算約7万人、朝鮮半島では主として民族独立運動に関わった2万3千人が検挙されたという。意外なことに、内地では治安維持法違反単独で死刑判決を受けた者はいない。死刑よりも「転向」させるほうが有効との当局判断があったとされ、事実、思想犯を転向に誘導する手法はきわめて高度であったらしい。
ただし、小林多喜二のように拷問や虐待で殺された者や、獄中で病死した者が多数存在する。また、朝鮮では45名が死刑執行されるなど、一般に外地での施行が苛酷であったという。
乱暴に要約するなら、共産主義弾圧から出発した治安維持法は厳罰化と適用拡大を繰り返し、反体制的な言動と運動全般、さらには内心における思想信条の自由を暴力的に抑圧するものとして君臨した。特定秘密保護法が実質的に同じ道をたどりはしないかと、多くの論者の懸念がそこにある。
要するに、不特定秘密保護法に成長するのではないかということだ。
長い一日も夕にさしかかり、自室で一息。
書かずもがなの注釈だが、治安維持法について。
1900年に制定・施行された治安警察法(精神病者監護法と同年だ!)は、日清戦争後に高まりつつあった労働運動を取り締まるためのものだったが、1917年のロシア革命などを受け、1920年頃から同法の強化改正が論議されていた。大正デモクラシーの時期に重なってすんなりとは進まなかったが、1925年(大正14年)にソ連との国交が樹立されると共産主義運動に対する懸念も高まり、治安維持法が同年4月に公布、5月に施行。普通選挙法との抱き合わせであったが、治安維持法は即時効力をもったのに対し、普通選挙の実施は1928年まで延期された。
1925年の規定は「国体変革」と「私有財産制度否認」に対して最大10年の懲役または禁固を課すものであったが、1928(昭和3)年の改正では「死刑または無期もしくは5年以上の懲役もしくは禁固」と著しく厳罰化。1941(昭和16)年の全面改正でさらに強化された。
治安維持法によって検挙された者は通算約7万人、朝鮮半島では主として民族独立運動に関わった2万3千人が検挙されたという。意外なことに、内地では治安維持法違反単独で死刑判決を受けた者はいない。死刑よりも「転向」させるほうが有効との当局判断があったとされ、事実、思想犯を転向に誘導する手法はきわめて高度であったらしい。
ただし、小林多喜二のように拷問や虐待で殺された者や、獄中で病死した者が多数存在する。また、朝鮮では45名が死刑執行されるなど、一般に外地での施行が苛酷であったという。
乱暴に要約するなら、共産主義弾圧から出発した治安維持法は厳罰化と適用拡大を繰り返し、反体制的な言動と運動全般、さらには内心における思想信条の自由を暴力的に抑圧するものとして君臨した。特定秘密保護法が実質的に同じ道をたどりはしないかと、多くの論者の懸念がそこにある。
要するに、不特定秘密保護法に成長するのではないかということだ。