散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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オリーブの島の盲導犬オルガ

2013-05-05 08:45:22 | 日記

もう実名で行こう。

昨日、室崎さんから本が届いた。

「オリーブの島の盲導犬オルガ」(土居忠行)

さっそく読んでみよう。

オルガ、ローラ、クイニー・・・するとパンディは何代目かしらん?

「いびきをかいて寝ています」と昨日の室崎さんのメールにあった。

息することが、生きること、息遣いが聞こえるようだ。

 

吉備人出版 (1999/12)

ISBNは

4906577393

978-4906577392

14年前の出版で新本は品切れと見えるが、2件のカスタマー・レビューがいずれも手放しの絶賛である。これを紹介して当座の御礼に代える。

 

*****

 

その1:

瀬戸内に浮かぶ小豆島で、マッサージ師として自立し、ボランティア活動にも積極的にかかわり、忙しい毎日を送る室崎若子さん。全盲の彼女の生き方を変え、毎日の生活を支えているのは盲導犬です。

 「香川県盲導犬給付事業」の第1号となった盲導犬オルガとの出会いから、若子さん自身の大きな変化と周囲の人々との交流、そしてオルガの死。若子さんと盲導犬オルガを見守り続けてきた著者が、丹念に取材を重ね書き上げた心あたたまるノンフィクション。

 障害者の自立とは、盲導犬とは…盲導犬のあり方を通して、共に生きる社会とは何か考えていきます。

 

その2:

10年も前に発行された本である。
 オリーブの島・小豆島に住む、全盲の女性マッサージ師の方が「香川県盲導犬給付事業」第1号の盲導犬と共に暮らすようになる。その間の人と犬との共生の様子が綴られている。
 外へ出て街を自由に歩きたいという夢をかなえてくれたのが、盲導犬のオルガだった。
全盛期の毅然として働く姿には、一種の風格さえあった。現役時代は、いつも人々に注目され、華やかだった。本書は、その引退、そして終末看護、パートナー・オルガの死に至るまでを愛情こめて跡づけている。
 未来へ・共に生きる社会を目指して、二代目ローラ、三代目クイニーと共にボランティア活動にまで結び付けている。
 突き詰めて考えると、やはり生き物の「命」の問題である。一頭の盲導犬の「いのち」を通して人間と生き物(代表として犬)との共生について考えさせられることが多い。

 

*****

 

室崎さん、ありがとう。

小豆島にも鯉のぼりが翻っていることでしょう。


面接授業の楽しみ@高松 ~ 続編

2013-05-05 00:12:55 | 日記

あっという間に2週間経ってしまった。

記憶の薄れないうちに、高松行について記しておく。

 「三つの楽しみ」のうち、「学生と出会う楽しみ」について先に書いた。

ついで、土地の楽しみとSC所長方の知遇を得る楽しみについて。

 

高松は帰省の途上にあたるので、しょっちゅう通過しているのに降りたことがなかった。

夜の飛行機で着き、リムジンバスに乗り込んで通路側の席に座ったら、窓側の紳士が

「席、代わったげましょか、僕はすぐに降りるから」

言うが早いかひょいと腰をあげた。

お言葉に甘えたが、夜なので窓外の景色を楽しむことは叶わない。10分ほどして、最初の停留所で紳士は会釈もせずに降りていった。

親切だし気も利いているのに、愛想はどうもあまりよろしくない。

この印象を足かけ三日、繰り返して受けることになった。

 

4月下旬とは思えぬ氷雨の夜が明け、土曜日は面接授業第一日である。

ホテルを出るとお遍路さんが二人、JR高松駅前を編み笠に白装束で行く。懐かしい四国路の風景。一人は最近流行りのウォーキング・ストックを使っている。

フロントでは、香川大学は「歩いて行ける距離ではない」と言ったが、地図で2km弱だから僕にはちょうど良い。肌寒いが空は青く、中央通りを徒歩で南へ向かう。標識に松山159kmとある。ちょうど100マイルか。

 

角のビルに「能力開発塾」みたいな看板が立ち、若い職員が土曜の朝からやってくる子どもたちを迎えているのは、東京と変わらない。その真ん前に停めた小さな 乗用車から、小学校高学年と見える男の子が吐き出された。大きな荷物を肩から下げ、見れば一枚歯のゲタを履いている。これは勇ましい、讃岐流かと感心する。

 

途中、「菊池寛通り」との表示を見る。さては香川の人であったか。

弘法大師に平賀源内、そして菊池寛とは、スケールの大きい人物を輩出するところだ。

広々と気持ちの良い街だが、歩道を駆け抜けていく自転車の操り方は、東京に負けず無法で乱暴に思われる。徒歩30分で香川大学に無事到着。

 

所長の山崎先生が懇ろに迎えてくださった。三日前、幕張の教授会で挨拶を交したところである。

教室まで御案内くださって、学生の顔ぶれを見るなり「あ!」と立ち止まった。

袖を引いて別室へ移り、声を低くしてこまごまと注意をいただく。学生サービスの前線である学習センターには、いろいろと苦労がある。

 

*****

 

昼食と夕食と、この日は二度も山崎先生に御馳走になった。

昼食は近所のうどん。東京などでも見かけるようになった讃岐うどんのシステムは、麺の量を指定して受け取り、自分で湯の中をくぐらせる。具を選んで乗せ、会計を済ませてからタンクのツユをたっぷり注いでできあがり。

西の人間には、関東のうどんは醤油汁のようでいただけない。あたりまえの讃岐うどんが無性に嬉しい。山崎先生は生粋の地元っ子で、大学と同じ町内の出身だと いう。「一枚歯のゲタ」には首を傾げ、「天狗じゃあるまいし、そんなの見たことないなぁ」と、讃岐流との関連をきっぱり否定された。な~んだ・・・

 

夜はまた、漁師町の料理屋で魚を御馳走になる。漁師町というのは数十年前までの話で、その後、浜辺を埋め立てて土地を造成したから、今は往時を偲ぶ由もない。これに比べると松山の海辺は、古風を遺してのどかなものである。偲ぶ由もないといえば、塩田だ。かつて製塩のメッカだった香川から、塩田は完全に姿を消した。

 

何でかなぁ、どうして、小規模でいいから遺しておかないのだろう。

ノスタルジアばかりで言うのではない。小さな塩田をひとつ遺して、流下式、さらには入浜式の製塩を実演する。料金を取って見せ、そこでできた塩製品を販売すれば、立派な観光資源になる。

聞くならく、入浜式で作られた粗塩は、苦みと共に不思議な甘みがあったという。

香川でなければ味見できないと宣伝すれば、食道楽の日本人は喜んで金を払ってやってくるだろう。

そして、こういう古い技術がいつ何時どんな形で役立たないとも限らないのだ。

昨年のこの時期、岩手学習センターの面接授業の際に、斎藤先生から伺った「地熱発電」の話を思い出したが、これはまた別項にしよう。

 

齋藤先生には東北人のど根性が香っていたが、山崎先生は闊達自在で軽やかである。平賀源内はこんな感じの人だったのではあるまいか。

 

町内のクリーニング屋の息子であった幼年時代から、阪大を経て関西大学で半導体の物性研究に専念した青年期を経て、縁あって故郷に錦を飾って以来のことを楽しそうに語られる。成功した人生の回顧談でありながら自慢のイヤ味が少しもないのは、これが人柄というものか。

 

つい最近も誰かについて同じようなことを書いたな。この点にこだわってしまうのは、ごく普通の会話の中にも自慢高慢手柄話がなくてはすまず、自己愛の臭みをぷんぷん発散して回りの鼻をつまませる手 合が自分の周辺にいつもいるからだが、ひょっとして「類友」かしらん?医者に自己愛は珍しくもなく、それだけによくよく我が身を振り返れということかもな。自分のオナラは大して臭いとも思わないからね。

 

あ、そうだ!山崎先生は御自身の功績についても特に包まず話されるだろうが、他の人々が発見し達成した良いものについても、自分のことと同様に嬉しそうに語られる。良いものは良いもの、それを誰が見つけたかに拘泥がない。これが自由人というものだ。

 

実際、書家・後藤芝山(ごとう・しざん)の記念事業のこと、平賀源内制作と見られるエレキテルを民家で発見したこと、漢詩の専門家に面接授業を依頼したら素晴らしい内容であったこと、大学の裏山には古墳が発掘されており、これを探訪する面接授業があって自分も参加してみたことなど、先生の話題は実に豊富で楽しく、瀬戸内の魚を飽食する間、耳も頭も満腹堪能の思い。極めつけが「切り絵」である。

 

*****

 

日曜日の朝は快晴、エレベーターの相乗り客に「好いお天気になりましたね」と挨拶したら、「ほんとにね、きにょうは全くひどかった」と答が返ってきた。

「きのう」を「きにょう」と発音するのは、自分の知る範囲では松江あたりの方言にある。

瀬戸内は山陰から遠くない。

 

面接授業も二日目に入ると一気呵成。

心地よく疲れた頭で控え室の壁の絵を眺め、昨日のもうひとつの驚きを思い出す。

 

一見、切り絵と分かるものだが、構図が秀逸だ。

瀬戸大橋が建設中の姿であるのは、橋脚と吊り縄ばかりがあって肝心の道路・線路が未設置であることから分かる。その手前を横切っていくのは宇高連絡船、橋が完成すれば追われる身なのだ。さらに手前にたたずむ若い女性が、憂わしげな表情で胸を抱くようにしている。それらすべてを覆う、一面の夕焼け空・・・

 

 

 

思わず撮った写真は、ストロボの反射で稚拙なものだが、すばらしさの片鱗ぐらいは伝わるだろう。

 

この構図の見事さを感得するには、宇高連絡船についていくらか知っておく必要がある。

宇野と高松を結ぶゆえの命名で、三本の橋(これは偉業だ!)がかかるまでは本州と四国を結ぶ絆だった。飛行機が登場するまでは他の連絡航路とともに唯一の絆であり、飛行機に輸送の主役が移った後もローカルな実益と象徴的な意味をもつ絆であり続けた。

 

僕自身、何度もこれに乗っている。本州側から乗船し、きっかり一時間で高松に着く。降りれば四国で、乗り継ぐ予讃線は四国最大の幹線と言いつつこれが単線だ。(単線、わかりますか?鉄道に線路が1セットしか敷かれていないのだよ。田園都市線なんか、複々線化されて線路が4組併走している。線路一組で、なんで列車が衝突しないかって?頭を使い給え、若者たちよ!)

本当に、宇高連絡船を降りると、時計の針の進みがのろくなるような気さえしたものだ。

 

1903年(明治36年)からの前身時代を経て1910年(明治43年)開通、1988年(昭和63年)をもって廃止されたが、この間どれだけの人間がこの航路によって海を渡ったことか。その間には何度かの事故もあり、特に1955年の紫雲丸沈没では、修学旅行生徒を含む168名の死者を出してもいる。漁師町には、その際に遺体を安置した場所が現存しており、昨日は山崎先生がその話もしてくださった。

 

喜びも悲しみも幾年月、まもなく消えていく運命の宇高連絡船が、自分にとって代わろうとする橋の前を横切っていく。そこにたたずむ女性、そして夕焼け空。

構図も見事なら、それを描き出す切り絵の表現力の何と緻密で豊かなことか!

一瞬、滝平二郎がこの地を訪れたときの作品かと思ったが、まるで違っていて。

 

山崎先生が「ああ、それは萩原さんとおっしゃるアマチュアです。元・宇高連絡船の船長さんですわ」とおっしゃったので、二度びっくり。

 

「この人は、四国八十八カ所のすべてを切り絵にして、本にまとめています」と聞いて、三度びっくり。

 

「四国八十八カ所の方は、御本人の許可を得てファイル化したので、先生のお帰りまでにDVDに焼いといてあげましょう」とうかがって、四度びっくり。

 

帰り際に約束通りDVDを渡してくださり、本は一冊しかないのでと見せてくださったのをパラパラめくって、これはびっくりも決定打というものだ。

 

すごいよ、これは。

 

こんなのをDVD化しちゃって、先生いいんですかとこちらが気にするが、堂々と著者の許可を得てしたことと山崎先生は清々しく、許可する著者の恬淡たることもほとんど竹林七賢・清談の世界ではないか。

 

せめて1枚だけでもここにアップしたいと思ったが、なぜだかうまくいかない。

jpegでサイズも規定内なのに、何でだろう?

ともかく皆さん、ぜひ御覧になることをお勧めします。

データは下記の通り。

 

僕?もちろん買いますよ。だってこれ、すごいもの。

 

四国八十八か所霊場めぐり切り絵集
萩原幹生
成山堂書店
ISBN: 978-4-425-95401-8
定価:3,000円