散日拾遺

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肩先にピシリ!

2013-05-02 07:55:23 | 日記

S君が、朝の便りに下記を添付で送ってくれた。

許可を得てそのまま貼り付ける。

S君のコメント:

「本当に一流の人は、天賦の才の他に努力をしているのだと思いました。」

まことにまことに、その通り。

肩先にピシリ!

 

***** (以下、14,000字超)

 

2013423NHKラジオ明日へのことば中村勝宏氏(料理人)インタビュー

「海外修行で自分に試練を」

 

(1)2008年の洞爺湖サミットでは、総料理長として3日間、全部で11回の食事を統括した。メインの他に、随行員何百人分の料理も統括した。69歳だが10歳若いつもりでいる。料理フロンティアの会をつくり、311以来、定期的に東北支援に出向いている。衣食住は人間の基本であるから、食のことでお役に立ちたいという思いがある。

 

(2)1944年鹿児島県の阿久根に生まれた。一人で生きていくために何がいいか?食べる仕事についたら食いっぱぐれだけはないであろうと、単純に考えた。家がクリスチャンであった。実家は病院だったが、叔母が熱心なクリスチャンで地元に教会をつくるのが夢だった人。クリスマスには幻灯機でいろいろな西洋のものを見せられた。それが西洋への憧れとなった。

 

(3)当時、鹿児島にはホテルがなかった。1962年に箱根のホテルに就職した。しかし観光地で観光客用の仕事。ここでは本物の料理人にはなれないと葛藤し、東京にはツテがなかったので、横浜のホテルに移った。そこで田村料理長がフランス語のメニューを書いていた。そこで初めてフランス語にふれた。料理用語やフランス語を図書館で、独学で勉強した。

 

(4)日本で料理用語の理論的背景を聞いても誰も答えられない。本場フランスに行って修行したいという思いが強くなった。20歳代のはじめで好奇心もあった。でもフランスにはまったくツテがなかった。わずかに縁のあったチューリッヒのホテル・アスコットに一方的に3年間手紙を送り続け、ついに根負けしたホテル側が自分を受け入れてくれた。フランスに行くためのワンステップと、密かに考え渡航した。1970年の大阪万博の年。その少し前の1966年、マキシムが銀座のソニービルにできた(浅野和夫料理長)。これが日本でのフレンチのはじまりである。

 

(5)アスコットでは自分を認めてくれ、半年でシェフ・ソシエという身分に抜擢し給料を倍にしてくれた。しかし、どうしてもフランスに行きたいと早めに願い出て、きっかり1年で円満に退職した。トランク一つでパリに入った。フランスという大きな目的があったからできた。その後フランス10か所程職場をかえた。

 

(6)料理は風土が背景にある。六角形の形のフランスには各地の料理がある。同じ海でもブルターニュ、ノルマンディと地中海・南仏とでは海の色も、採れる魚も、そこに住む民族も料理も違う。フランスでは一流の料理人は、若いときに3つ星、2つ星の有名レストランを1年~1年半で転々と修行してまわる。いろんなやり方、いろんなシェフについて学ぶ。一か所に十年もいると使い物にならなくなる。19716月にパリ東駅のルーレィ・ガストロノミーに移った。運よく、この2つ星のところで1年。次にアルザスの名門オーベルド・リー、エーベルレというシェフの下で修業した。

 

(7)スイスにいたころ、フランス全土のレストランに手紙を書いた。当時12軒(現在27軒)の3つ星レストランすべてに手紙を書いたが、返事はなかった。50602つ星レストラン全部、そして1つ星レストラン300くらい、スイスでの1年で合計400通の手紙を書きまくったがすべてなしのつぶて。唯一、オーベルド・リーだけが断りの手紙をおくってきた。そこでエーベルレさんに毎月のように手紙を書いて、結局受け入れてもらえることになった。

 

(8)自分がパリでシェフのときに2つ星から半年で1つ星に落ちてしまったことがあった。星が落ちることの意味を、身をもって体験した。星をなくしたときのドラマにはすごいものがある。パリのラセールは半年でやめた。3つ星で、ただ働きをしてもいさせてほしいという人が山ほどいるところ。しかし3つ星の仕事をしていないので自分から見限って他に移った。ロアジス(南仏で唯一の3つ星)でもシェフ・ソシエとして1年働いた。

 

(9)子どもも生まれ、生活を安定させることが必要になった。修行したラ・マレー(魚専門店)のムシュ、オイヤーというシェフの紹介で19787月に星のなかったル・ブールドネに移った。このブールドネはパリ7区の客層のすごく良いところにある。オーナーがホテルの中のレストランを借りてやっていたが、1年で3人もシェフがかわりうまくいっていなかった。ル・ブールドネの面接では、まさか日本人が来るとは思っていなかったようで、話しも弾まなかった。しかし、置いていったこれまでのサフィテカ(証明書、人物評価)を見てオーナーは慌てて連絡をしてきて、勤めることになった。

 

(10)レストランを、客がまったくいないところから始めるのは大変なこと。最初は自分からオーダーをとって給仕もした。でもへんな日本人が出てきて片言のフランス語で、大丈夫かなとおもっていたら、そこそこの料理が出てきたということで、面白がってくれた。10か月で星をとった。星をとるということは予約で埋まるということ。最初は鍋洗いと若いフランス人と3人でやっていたが、ギャルソンを雇って、テーブルに白いクロスをかけたり花をおいたりできるようになりレストランらしくなった。

 

(11)星をとって、フランスで料理評論家のバッシングにあった。星をとるということは常に評論家に観察されるということ。常に誰かが前ぶれなくチェックしに来る。ほめられることも、けなされることもあった。日本人というハンディをのりこえてパリの真ん中で星をとってやるということは厳しさがあったが、それが自分の糧となった。いまはフランスで10何人星をとっている。人種差別もあり、当時1970年代は日本人を雇っているということを隠していた時代。そこでやっていくために信頼をいかにつかめるか。見てくれではダメで、誠心誠意やっていくことが必要であった。

 

(12)今年星をとっても、来年星がなくなったら、レストランを売るしかなくなる。売り出さないと客は誰も来なくなるから。オーナシェフが、一つ星がなくなるとすぐに売らざるをえなくなる。ものすごく厳しい。星の十字架を背負って、ある意味では怯えて、年末をすごす。毎年、精神的には厳しい。

 

(13)フランスでは、食が文化として世の中で評価されている。まだ日本はそこまではいっていない。しかし日本人はいま活躍している。むかし自分の時代には日本人を雇っていることを隠していた。今では堂々と日本人をつかっていると言いたくてしかたがない感じ。

 

(14)フランス人は自分の国の料理が世界一と確固たる自信がある。しかしフランスの若い料理人が、アジア、アフリカの料理を学んでいる。和食というのは健康志向、食育がある。いまのフランスの若手の有能なシェフは、本当に日本に来たがっている。日本のマネをするのではなくて、自分の個性化に日本料理の技を使っている。

 

(15)いまの日本の若い人はこぞってフランス、イタリア、スペインなどへ行って修行している。料理に関しては、東京は世界中の料理が、ある一定のレベルで食べられるところと世界中の人が認めている。日本人は勤勉で、他の風土の中に飛び込んで覚えてきて、それをみなでとっかえひっかえ刷新し、一定のレベルが根付いてきた。

 

(16)旅行者が表面的ないいところ楽しいところだけを見てくるのに対し、向こうで生活をし、向こうの組織の中に入って向こうの人たちとやっていくのは、当然それなりの厳しさがある。とまどいやハンディがある。だが厳しさが、最終的には自分の糧になる。いじめにあって日本に帰ってしまったという人もいっぱい知っている。悩みの手紙や電話もいっぱいもらった。でも自分の場合、14年間の厳しかったことは忘れ、いいことを覚えている。時々、厳しかったことも思い出すが。若いときは、ある程度の失敗は許される。怒られる、あらゆる経験を通して、物事を吸収し、自分自身を鍛える。

 

(17)フランスの社会に入って自分でやっていくことは、ある意味では自分一人の世界。一人ですべてを考えなくてはならい。そうした中でやっていくのは大変厳しい。しかし、自分自身を見つめて、自分はなんとかやれるのではという感覚も芽生えてくる。3年くらいがんばると生活のパターンができてくる。また現地の中で、自分が日本人であること、日本というものが明確に見えてくる。一人間として経験したものが財産となっている。大変だと思うとやっていけない。なんとかなると思ってやっていって今がある