あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№100 中国文学 上海 北京 香港 マカオ 内山書店 魯迅 孫文

2018-01-02 15:47:57 | 日記
1970年希望に満ちた東京の生活から下野して、福岡での悶々とした生活が3年ほど続いた。中小企業の仕事は煩雑で、時間に追われ先の見えない日々が続いていた。丸の内のサラリーマン生活が華やかに蘇ってきても、どうなるものでもなかった。
長年愛用していたパーカーの万年筆は引っ越しのどさくさで先が曲がって、継続して書き続ける適当な擦り減り具合が復元できず、それを理由にものも書けなかった。仕事の終わり時間は酒の始まりで、唯一の安らぎだった。何かをしようと思う意欲も減退していた。

1973年僕は30歳になった。それでもその正月、僕は考えた。30歳、何かをしなければならない、仕事には当然力をそそぐが、心の中には別の世界、新しい何ものか、ロマンのかけらがなければならない。考えたのは、いつか友人と話していた、30年から50年後には中国が強力な力を持って世界を支配するに違いない。そうだ中国語を勉強しよう。東京の仕事でも中国への探りは進んでいた。紅衛兵の話なども耳に入っていた。僕はためらわずに、電話帳を開いて、「日中友好協会」を探した。出てきた男は「うちは初級はやっていません」といった。僕は意地になって「それならちょうどいい」と答えた。発音も文法も何も知らなかったが。天神に教育会館というのがあって、古い建物の会議室が教室だった。誰の許可もなくて使っていたようだ。楽しい時間が始まった。初心者だから何も恥じることはない。間違っても澄ました顔でいられる。先生は台湾からの留学生。九大の医学部生の王さん。
リーダーは西日本新聞印刷会社の労働組合リーダーで共産党員、九大建築中退。他に香蘭社のノンポリ社員、テレビ熊本のもとアナウンサー、その友人、九大の東洋史の学生、ほか少しだった。皆もう何年もやって上手だが、下手な僕を受け入れてくれる。少し慣れると、作文、1,2行の作文がある。僕は冗談交じりの文章が得意で皆を笑わせた。
彼らとの交流は楽しいものだった。それとは別に、小楊「しゃおやん」という18歳の少女とも会うようになった。奇麗な彼女は北京から帰ってきたばかりでその発音もきれいだった。毛沢東の悪口を言ったり、北京の自慢話も面白かった。戦後北京に残った日本女性が中国人と結婚してできた子供だった。あちこちの喫茶店に入ったり、海水浴へ行ったり楽しい日々を送った。仕事のストレスもそれらの時間には忘れることができた。日中交流正常化の時代に先駆けた事業の一つだったろう。30歳を過ぎていたが僕には青春だった。

その数年間で中国文学をたくさん読んだ。「三国志演義」「水滸伝」「紅楼夢」「金瓶梅」「清末政治論文」「魯迅」「唐詩全集」りょうさいいし」「大平天国史」「阿片戦争」「満州帝国の歴史」「辛亥革命史」武田泰淳。横光、陳舜臣、「史記」「老荘、韓非子、孟子」「など発音は悪かったが、面白くのめりこんだ。友人も増えた。様々な学部の留学生、とくに招聘され北京大学の教授の陳さんは親しくよく酒を飲んで語り合った。何人も呼んで正月など我が家で料理をふるまうのも楽しみだった。偉くなって帰ったり、その後アメリカで活躍したり、彼らとは長い付き合いが続いている。が「余談だが、尖閣の問題で日中がもめてから陳さんからの連絡が途絶えた。」監視されているのかもしれない。陳さんの娘は福岡で活躍している。
これらの数年の間に、周恩来、毛沢東が死に、4人組が権力を握り、またそのあと天安門事件があった。ノンポリを称していた張君はその時はアメリカにいたが、悲しみと怒りの手紙を送ってくれた。
もう何年前か忘れたが、30年ほどだろうか、「福岡県日中友好協会」の一員として北京と上海を訪れたことがある。商業関係の偉い役人とあった。夜はひたすら夜の下町を歩いた。王府井、和平飯店、東風市場、故宮、天安門、るーりーちゃん「アンチック街」、少しは中国語は通じた。万里の長城の近くのレストランに(入ろうとしたら、守衛がダメ、と僕を制する。ここの入り口は外国人専用だ、僕はうれしかった。中国語で、俺は日本人だ、といったら通じた。

中国の想いでは限りない。香港「7回」、マカオ「5回」も好きな場所だ。消えない思い出も多いが、上海も同じだ。最初の時はまだ古い歴史の雰囲気を無理して感じようとするとそれができた。外灘、公園、虹口付近、黄埔江、孫文の家のある南京路、また商業の中心の南京路。大木の並ぶ公園で、一人の若者が木に頭をつけてじっと立っている。閉塞した社会への抵抗で悩んでいるのか、個人的な問題なのか。なぜか同情したくなる。トロリーバスが市内の街路樹のプラタナスの葉を散らしながら走っている。ブロードウエイビルが夜空に怪しく、光る。古い煉瓦の洋館の並び。団体を抜け出しやはり歩く。知り合いの中国人とそのころ高級と言われた、ホテルの最上階のクラブに行く。まさに上海バンスキングのジャズが流れる。ところが出てくる飲み物は箱スイカジュースだ。そこでちょっと踊ってみる。
路地の途中の魯迅の旧居を訪ねる。「阿Q世伝」や「狂人日記」は興味深く読んだ。
「内山書店」は必ず訪れなければならない、が車の中からだけ眺める。今は記憶が薄れているのでよく思い出せない。入り口に「内山書店」と書いあった気がする。2、3階建ての石の建物の一階。今は、そこは銀行になって2階に記念室があるらしい。銀行の壁にはプレートに案内があるらしい。1998年以降のことらしい。1920年ころから、20年近く、内山というクリスチャンが日本書店を開いていた。知識人に便宜を図っていたので日中友好の場所だった。当然、魯迅とは親しかった。上海を訪れた日本人は必ず訪問する。金子光春、谷崎、林芙美子、佐藤春夫、武者小路、横光、また中国人、郭沫若の亡命を助け、郁達夫、田漢なども助けた。
反面、昔はフランス、英国ほか租界に分けられ、犯罪と悪や阿片の魅力に満ちた魔都上海である。まだ長い歴史では革命と動乱の街である。一般に上海蟹がおいしいというのは、昔動乱が多くて次々に死体が黄埔江に捨てられ、それを喰った蟹が脂がのっておいしかったと言いうことだが、いま何も知らない観光客が美味しいというが、本当においしいかどうか。

それから、10年か15年か経った時にまた上海を訪れた。その変化にびっくりした。大都会だ。発展する社会主義国中国、格差の激しいと言われる人民。5千年の歴史と動乱革命の歴史を内包して、またどういう風に変化していくのか。その変化を想像するのは僕にとっては、まさに神秘の内なる旅である。
中国に関しては、まだまだ書きたいことがたくさんある。そして明後日、上海への旅に出る。











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4 コメント

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できる人 (中島三晶)
2018-01-02 20:33:51
“できる”人はどこにいても“できる”のだと感心しています。中島
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Unknown (いもと)
2018-01-03 07:47:50
コメントありがとう。
今年もまたどこかへ行くのかな。
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魯迅先生 (上田正弘)
2018-01-04 20:45:03
明けましておめでとうございます。魯迅の日本留学時代の恩師は確か福井出身の藤野先生でしたよね。私は日中国交回復10周年に福井テレビのご招待で中国を一周しました。藤野先生と福井テレビのお陰でVIP扱いで旅行が出来たことを思い出しましたよ。
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Unknown (imoto)
2018-01-07 10:22:31
30年の間に10年ごとに訪れて3回目の上海。
その変化の速さとすごさと魅力に圧倒されました。
小生の発音は悪いが、少しは通じた。
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