古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

朝鮮半島の史記 三国史記(百済本紀)

2017-06-17 13:36:59 | 歴史
三国史記(百済本紀、新羅本紀、高句麗本紀)があります。
詳しくは Wikiで調べて下さい。
三国史記(百済本紀、新羅本紀、高句麗本紀)に加えて、好太王碑文 と 倭の五王の記載を年代別に並べてみます。
高句麗本紀には、倭国・倭人についての記載は無いようですので登場しません。

(新羅本紀)
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。
※卑弥呼は、173年には、女王になっていたようです。
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
※卑弥呼死亡、台与が新女王になる。

249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
(百済王が七枝刀)
369年では百済王が七枝刀を贈ってきます。

(好太王碑文)
391年に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌にでむいた。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
※高句麗が援軍を出し、朝鮮半島から倭軍を撤退させる。

(百済本紀)
397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。
402年 五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。
403年 春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。
405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
418年 夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。
※百済とは友好的な関係であった。

(新羅本紀)
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
※ここまでは、倭国有利で何度も新羅を攻めています。
 次からは、状況が逆転しているようです。
(宋書 倭国伝 と 倭の五王)
421年 倭の讃王、珍王 百済を含む朝鮮半島を支配したが、高句麗には及ばず
433年 済王、興王、の時代は百済を攻撃するが百済は高句麗に側にあった。
478年 武王が百済から兵を引き上げる。
※倭国軍が朝鮮半島から撤退
後に
663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだが大敗、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させた。

(新羅本紀)
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
※倭の五王の手紙と一致、倭国が新羅支配をなくす。


まとめ
倭国は古くから百済とは友好的な関係であった。
帯方群経由で魏と交易が出来、朝貢、漢委奴国王や親魏倭王の金印を受け取る事ができた。

新羅とも奴国の時代は友好関係であったが、卑弥呼の時代に武力支配移る。
391年に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
には、朝鮮半島の百済・新羅を支配していた。
なぜか、倭国が軍隊を贈るのは春か夏、やはり冬場の朝鮮半島は寒かった。

古事記に登場する神功皇后の三韓征伐がこの時代に行われた。
『日本書紀』において、神功皇后摂政として、晋書の倭の女王についての記述が引用されている
西暦266年になる事から、卑弥呼ではなく台与の可能性がある。
14代仲哀天皇(神功皇后の夫)の2代前、12代 景行天皇の妹(第11代垂仁天皇の第4皇女)が倭姫、こちらに卑弥呼を挿入しています。

卑弥呼と神功皇后の
共通点
・神功皇后の在位年数が69年と長い
・皇后と女王 共に政権のトップ
相違点
・神功皇后は結婚している、子供がいる。
・祈祷師ではない。
・卑弥呼は朝鮮半島へ云っていない、神功皇后は出兵している。
神功皇后は、卑弥呼の年代に半島支配があった事を知っている古事記の編集が架空の女性を盛り込んだのでしょう。
朝鮮半島の史記 三国史記に、神功皇后らしき女性の人物がありません。
但し、三国史記は、1145年完成ですので、古事記の編集者が読んでいたことはありません。

306年 三国時代の抗争の後、ようやく中国を再統一した晋の司馬炎だが、八王の乱が発生
大陸が分裂して支配力を失い、高句麗が力をまし、朝鮮半島を南下する。
多くの百済人が倭国へ渡来します。その時に仏教や漢字が伝わった事でしょう。
537年に新仏派の蘇我稲目が大臣になりますが、先祖は百済人ではないでしょうか。
663年 大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させました。
645年 三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日したに入鹿を暗殺(乙巳の変)ですので
大化の改新にも新しい朝鮮からの渡来人は歓迎されたのでしょし、古事記・日本書紀の編集にも加わったでしょう。
後の遣隋使、遣唐使の派遣では、朝鮮半島を経由せずに、直接大陸へ渡ります。
また成功率は低かったようです。

事記の日本神話に徐福は登場しているのか。

2017-06-17 07:08:11 | 歴史
事記の日本神話のイザナギとイザナミを4更に遡ります。
別天神(ことあまつ神)5柱
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 特別な存在として「別天津神」と呼ぶ
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
神産巣日神(かみむすひのかみ)
3人で「造化の三神」
次に登場する
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)- 活力の神
天之常立神(あめのとこたちのかみ)- 天の神
合わせて5人(全て独り神)が別天神(ことあまつ神)

神世七代(かみのよななよ)天地開闢のとき生成した七代の神の総称
1.国之常立神(くにのとこたちのかみ)
2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
2柱は独り神

3.宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
5.意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
5代(10柱)二柱で一代(夫婦神)

「造化の三神」 3 別天神 5 神世七代 7 の数字は
神社などで使われる七五三の奇数の素数です。
三神で思いつく所が古代中国(秦の始皇帝の時代の言い伝え)
「海中に三神山あり、蓬莱・方丈・瀛洲といい、仙人がこれに居る。」
徐福が秦の始皇帝に伝えて、紀元前219年に童男童女数千人をつけて海上に送りだし仙薬を求めさせます。
司馬遷(しばせん)が紀元前91年ごろ完成させた『史記』の秦始皇本紀に記載されています。
古事記の編集者が読んだ可能性はあります。
別天神(ことあまつ神)5柱とは、徐福が渡来する以前に、倭国に伝説として存在した神々

国之常立神と豊雲野神が独り神ですが
次の5代は夫婦神です。魏志倭人伝に紹介に
伊都国 官を爾支(にき)といい、副(官)を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)
奴国  官を兇馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)
不弥国 官を多模(玉または魂)といい、副官を卑奴母離(夷守)
投馬国 官を弥弥(耳)という。副(官)を弥弥那利(耳成・耳垂か)
邪馬台国官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。
五つの国に二人(或いは二人の妻で三人)の官と副官が紹介されています。それぞれ夫婦ではないでしょうか。
神様から人に近くなっています。
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)は、
伊邪那岐が伊支馬から名前をかえた、また別の時代、或いは別の国王の官と副官?かも
そして、この二人は
・二人は国生みの際に、間違いなくSEXをしています。
・最初に蛭子を産みます。虚弱児、奇形児、死産を意味します。川に流しています。
・伊邪那美神は火の神を産んだ時に亡くなります。神様なのに死んでします。出産で母親が亡くなる。火の神なので戦争で死んだ。
・伊邪那岐神が亡き妻に会いに黄泉の国へ行きます。夫婦愛があります。
・伊邪那岐神を追ってきた八色雷公は悪霊の類(人間臭い悪霊を閉じ込めているのが黄泉の国)
・伊邪那岐神が黄泉の国から逃げる時に、出入り口に岩で蓋をして、伊邪那岐美が千人殺す。伊邪那岐神が千五百人産むで、性と死が産まれます。
だいぶ人間の生活、思考になっています。
その後の
・天照と一緒の機織の娘が陰部を怪我してなくなる(高天原には、機織工場があった)
・天照が弓矢や槍をもって素戔嗚を迎え撃つ(武装する集団:軍隊があった)
・誓約では、天照は三皇女五皇子を引き取る(いちゃもんもしっかりつけている)
・天の岩戸の前で、桶を叩いて歌う神、裸踊りをする神(音楽や踊りなど娯楽があった)
・素戔嗚の爪をはいで国から追い出す(体罰や島流しの処罰があった)
等々、もはや天空の神様の話ではなく、地上にある卑弥呼の宮殿が舞台となっています。

直径100歩の卑弥呼の墓と100人の殉職者(とにかく100と云う数字が好きです)も
お墓が天の岩戸で、その前の広場で、歌って踊る神々に話を変えます。

卑弥呼の死後、男王が王になりますが、国が乱れて、台与が女王になります。
国を追われた男性がここにも一人います。
追放された素戔嗚は
・卑弥呼の死後に王となった男王
・狗奴国の男王 卑弥弓呼
・魏国に応援を依頼しに行ったのに黄色い旗しか貰えず失敗した難斗米
つまり素戔嗚は、高天原を追放された男性と出雲国のご先祖様の二人です。
天照と喧嘩する素戔嗚 と 因幡の白兎を助ける素戔嗚では、人格が違いすぎます。

古事記の著者は、大陸の史記(魏志倭人伝、秦始皇本紀など)巧みに取り入れ倭国の物語にしています。
秦始皇本紀から徐福の記事を読んだのであれば
神世七代の国之常立神辺りが徐福ではないでしょうか。
豊雲野神は、筑紫国の隣に豊国があるので、そちらの国の神様として挿入された可能性もあります。