古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

古事記の上巻(日本神話)と中巻に登場する人物

2017-06-18 17:45:08 | 歴史
古事記の日本神話と九州、出雲以外の神話で紹介したように
古事記の上巻(日本神話)には、魏志倭人伝など大陸の史記に紹介された事実を挿入しています。
この日本神話の時代は設定は、数億年、数千万年前になります。
※天孫降臨したニニギは、180万歳となっています。
そして、中巻の始まり 初代神武天皇即位が 紀元前660年の設定です。
上巻に弥生時代、古墳時代の事実を盛り込み、次の章 中巻の始まりを弥生時代以前にしてのですから
同じ時代が二度登場する事になります。

時代の新しい天皇から順に確認してみます。
古事記(下巻)
26代 継体天皇 507年即位
 仁徳天皇家系で天皇家後継続きますが、武烈天皇崩御の後、後継者が決まらず。
 応神天皇(仁徳天皇の父)まで遡り、継体天皇が即位する。大きな世代交代が有名です。
 宮内庁は太田茶臼山古墳(茨木市)を継体天皇陵にしていますが、近年の調査で、すぐ近くにある今城塚古墳(高槻市)が有望視されています。
 太田茶臼山古墳は宮内庁管轄なので中に入る事もできませんし、調査もできません。
 今城塚古墳は、高槻市が管理して公園になっています。古墳の前方部分、後円墳部分に上る事も出来ます。
 石室は残念ながろ盗掘されていました。棺の部分が地震で倒壊してむき出しになった様です。
 周囲に多数の埴輪配置されていたり、構築の技術に新旧二つの工法があり、三つの棺があったとされています。
 太田茶臼山古墳より新しく継体天皇活躍の時代になる事から、真の継体天皇陵と呼ばれる様になりました。
 後に、蘇我氏VS物部氏、推古天皇&聖徳太子の時代を得て、38代天智天皇(中大兄皇子)が大化の改新(645年)、古事記の作成を依頼しますので
 その百年ほど前、10代前ですので、年代的には正しいです。

古事記(下巻)の始まり
16代仁徳天皇(父は、15代応神天皇で継体天皇の先祖)~25代武烈天皇(この辺りから即位の年が西暦で不明になります)
 仁徳天皇陵は宮内庁設定で最大の古墳 大仙陵古墳 です。
 築造年代が600年代前半です。
 倭の五王に、仁徳天皇以降、武烈天皇までの五人の天皇とされています。
 『宋書』倭国伝によれば
 421年 倭の讃王の手紙から
 478年 倭国の武王の手紙までの5人の倭王ですので、
 21代 雄略天皇~武烈天皇は5世紀(400年代)の人物になります。
 大仙陵古墳の築造年と差がありますので、宮内庁の設定にも無理があります。
 仁徳天皇は、4世紀中頃の方ではないでしょうか。
 武烈天皇まで倭の五王ですが、近畿の王である必要はあるでしょうか。
 九州の豪族の歴史を、天皇家に挿入した可能性もあります。

古事記(中巻)の終わり
 14代仲哀天皇 と 神功皇后 とその子供15代応神天皇
 神功皇后は、身重の体で石でおなかを冷やしながら朝鮮半島へ出兵し新羅の武力支配を完成させます(三韓征伐)
 在位年数も69年と非常に長いです。卑弥呼 或いは 台与をイメージした架空の人物でしょう。
 七枝刀 と 広開土王碑から
 朝鮮半島を支配が完了したのが4世紀、4世紀後半には高句麗が攻めてきて、5世初めに支配を失っています。
 実際は、新羅本記にある
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
 312年の「新羅の王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。」が三韓征伐完了の真実ではないでしょうか。
 「仲哀天皇が亡くなった後、応神天皇が産まれたばかりで皇后が政治を行った時代があった」かもしれません。
 こちらも近畿の歴史ではなく、出雲の歴史であった可能性があります。

 11代垂仁天皇の子供 12代景行天皇 と 倭姫命 と 日本武尊(倭建命)
 日本武尊(倭建命) は神話の集まりでしょう。
 ・幼い時に、父の命令で兄を呼びに行くが、片手で握りつぶして殺してします。
 ・九州の熊襲建兄弟 伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる
           熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。
           自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。
 ・東方征伐     倭姫命に伊勢神宮にあった神剣、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを貰う。
           関東地方を神がかりの方法で征伐、帰路の途中で亡くなり、白鳥となって大和へ戻る。
 上巻の日本神話の続きが登場します。
 草薙の剣は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の事で、素戔嗚が八岐大蛇を退治した時に尻尾からでてきた神剣
 後に、天照に献上して、ニニギが天孫降臨の際に地上に持って降りる。
 10代崇神天皇が伊勢神宮に移す。
 日本武尊(倭建命) の死後、伊勢神宮に戻ることなく、現在の熱田神宮に祀られる。
 天皇家の三種の神器のひとつですが、壇ノ浦の合戦(源平合戦)で関門海峡に沈んだとされています。
 倭姫命 と 日本武尊(倭建命) も 魏志倭人伝などで紹介される 倭国の名前を貰っています。
 弥生時代の歴史を二人に託して挿入したのでしょう。
 卑弥呼=倭姫命、次に男王=倭建命、台与=神功皇后と神話の人物が二度目の登場です。
 日本書紀で大陸向けに辻褄を合わせるために必要だったのでしょう。
 設定では、11代垂仁天皇の子供 12代景行天皇は、2~3世紀になります。
 近畿のヤマト王権から最初の律令 氏姓制度ができます。この時代の天皇の実績でしょう。

 垂仁天皇陵は、宝来山古墳に宮内庁は設定、全国では第20位の規模の古墳で、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定されています。
 垂仁天皇、景行天皇は実際に近畿に住んでいた天皇ではないでしょうか。
 邪馬台国(倭国)が近畿にあった事を大陸へ伝えるために、倭姫命 と 日本武尊(倭建命)を挿入したのでしょう。
 第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性も登場します。
 歴代の天皇にはならない皇女、皇子を置き換えたのです。
 実際は、仁徳天皇以下、倭の五王と同じ時期の近畿の王の歴史ではないでしょうか。

 初代神武天皇(神武東征)~9代開化天皇(欠史八代)
 神武天皇即位が紀元前660年以後、100歳を超える長寿の方々です。1世紀位までになります。
 実際の歴史では、徐福船団、弥生時代初期、漢委奴国王の金印、倭国大乱です。
 上巻(日本神話)が九州の紹介で、中巻が近畿の歴史にする為の苦労が見えます。
 神武天皇 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)も長寿で、神武東征も長年費やしています。
 15歳のときに皇太子となり、吾平津姫(あひらつひめ)と結婚
 45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった東征を決意、出発
 52歳 橿原宮で践祚(即位)
 127歳 76年間即位している。
 一人では無理ですし、一代でも無理です。
 もし、近畿の一族が九州の一族を祖先と表記したのであれば、今流の言葉で「経歴詐称」です。
 神武天皇は、近畿で諸国の控除を后として多数迎えています。
 卑弥呼と一緒に暮らす巫女の宮殿を作り、諸国との関係を強くすることで、近畿に邪馬台国を作ったのではないでしょうか。
 その国の名前は ヤマト と発音して、後に漢字は 倭 と云う漢字を用いたという事です。
 古事記の中巻に登場するのは、邪馬台国 の歴史だけで十分で、第二の邪馬台国の建国が目的でした。
 実際に、倭姫命、倭建命、神功皇后に該当する人物がいて、歴史に合わせて日本の史記、古事記に書き加え編集してのです。

歴史の偽造は、倭の五王 武烈天皇まで続きます。継体天皇が応神天皇の子孫の設定も疑いがあります。
しかし、継体天皇以降が、かなり事実に近く、信ぴょう性があります。
645年の大会の改新前、百年位、既に漢字もありますので近畿での出来事ですので、自らの先祖の事実を知る事が出来たのではないでしょうか。
神武天皇即位を紀元前660年に設定したため、歴史を偽証せざるを得なくなります。
もし、天孫降臨を卑弥呼の死後3世紀後半に設定できていれば、古事記・日本書紀の内容が大きく変わっていたでしょう。