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法相宗

2023年03月18日 | 仏教各宗(一)(南都六宗)

第一章 仏  教  各  宗   からの転載

  一、南 都 六 宗

   法 相  宗(現在の宗派)

[宗祖]基(六三二〜六八二)

[高祖]玄奘(六〇〇〜六六四)

[本尊]弥勒菩薩・諸仏菩薩

[経論]『成唯識論』・解深密経・『瑜伽師地論』・『唯識三十頌』等

[大本山]興福寺 奈良市登大路芝町四八(本尊は釈迦如来)

     薬師寺 奈良市西ノ京町四五七(本尊は薬師如来)

[寺院教会数]一七二

[教師数]二八九

[信徒数]五六四、三二二

 

【沿革】

 法相宗は、インドから唯識の経論を持ち帰って翻訳した玄(げん)奘(じょう)を始祖とし、その弟子・慈恩大師基を宗祖として、中国の唐代に興った学派仏教である。

 法相宗の教義の根本である唯識思想は、インドの弥勒・無(む)著(じゃく)・世親らが唯識大乗の教えを基として大成したものである。 

 世親以後の唯識学は、インドにおいて盛んに研学され、瑜伽学派(瑜伽行派)と言われた。これには、徳慧・安慧・真諦の系統と、陣那・無性・護法・戒賢の系統などがあったと言われる。玄奘は戒賢より唯識教理を伝授されて中国に持ち帰り、その弟子・基が法相宗を開いた。

 日本への初伝は白(はく)稚(ち)四(六五三)年に入唐した道昭によって、第二伝は斉明天皇四(六五八)年に入唐した智通・智達によってもたらされた。道昭・智通・智達は玄奘より教えを受け、帰国後、元興寺を拠点として講学したので、元興寺伝あるいは南寺伝と呼ばれた。

 さらに、第三伝は大宝三(七〇三)年に入唐した智鳳・智鸞・智雄によって、第四伝は養老元(七一七)年に入唐した玄(げん)昉(ぽう)によってもたらされた。智鳳・智鸞・智雄・玄昉は、基の孫弟子である智周より教えを受け、帰国後、興福寺を拠点として講学したので、興福寺伝あるいは北寺伝と呼ばれた。

 平安時代前期には、徳一が出て、伝教大師最澄の法華一乗の教えに対し、「三乗真実・一乗方便」の義を立てて論難した。これを「三一権実論争」と言う。

 鎌倉時代以降、法相宗の宗勢は振るわず、さらには明治維新の廃仏毀釈によって衰退したため、一時、真言宗に併合された。その後、明治十五(一八八二)年に法相宗として独立し、同二十五年には興福寺・法隆寺・薬師寺を三本山と定め、三本山制・一管長制となった。昭和二十五年、法隆寺が聖徳宗として分派独立したので、現在は興福寺と薬師寺を二大本山としている。

 

【主な寺院】

<興福寺>

 興福寺は、藤原釜足の妻が夫の病気平癒の祈願のため、天智天皇八(六六九)年に建立した山(やま)背(しろ)(山城)山(やま)階(しな)寺(でら)が前身で、天武天皇の時に飛鳥に移され、厩坂寺と称した。その後、平城京遷都とともに和銅三(七一〇)年、現在の春日の地に移されて、興福寺と改称した。

 

<薬師寺>

 薬師寺建立の由来は、天武天皇九(六八〇)年、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して飛鳥の地に一宇建立を発願したことによる。その後、天武天皇が崩御したため、持統天皇がその遺志を継いで藤原京に伽藍を完成させた。平城京遷都に伴い、養老二(七一八)年、平城京に移された。

 薬師寺の法相教学は、初伝の道昭系と第三伝の智鳳系によるが、八宗兼学の学問寺として栄えた。天延元(九七三)年の火災により諸堂が消失し、以後、教学の中心は興福寺に移った。 

 

【教義の概要】

 法相宗は、『成唯識論』に引用される 六経十一論を所依の経論とし、唯識の立場から諸法の在り方を追求した学問宗派である。

 六経十一論のなかで、法相宗の正所依とされるのは解深密経と『瑜伽師地論』であるが、実際は、護法の『成唯識論』が根本聖典となっている。これは、世親の『唯識三十頌(じゅ)』の註釈書である。

 法相という名称は、所依の教典である解深密経の「一切法相品」の品名と、法相宗の教えが、諸法の相である現象の分析・考察を重視することに由来する。

 

 <三時教判>

 基は、解深密経の文によって、一代仏教を初時・第二時・第三時と分ける三時教判を立てた。

 初時とは、小乗の機(声聞乗)のために阿含経が説かれた時を言う。ここでは四諦の法門をもって、外道や凡夫が執着する実我は空であり、諸法は有(う)であることが説かれた。この教えを「有教」と言う。

 第二時は「昔(しゃく)時」とも言い、大乗の機のために般若経を説いた時を言う。ここでは「諸法は皆、空である」との教えが説かれた。この教えを「空教」と言う。

 第三時は「今時」とも言い、大小乗すべての機類のために解深密経、華厳経、法華経等の大乗教を説いた時を言う。ここでは非有非空の中道が説かれた。この教えを「中道教」と言う。これらのなかでも解深密経を最勝とし、『瑜伽師地論』『成唯識論』などは、この理を解説したものとする。

 法相宗は、この教判によって、唯識説が中道の教えであり、最上の教説であるとしている。

 

<五性各別>

 法相宗では、衆生が先天的に具えている性質に五種類あり、それは阿頼耶識のなかに持っている本有種子によって決定され、けっして変えることができないとして「五性各別」の説を立てる。

 五種の衆生とは、次の通りである。

①定性菩薩(菩薩種性)・・・完全な智慧である無漏智の種子のみを持っていて、成仏できる衆生のこと。無漏智とは、四諦の理を証見する見道以上の聖者の智慧を言う。

②定性縁覚(縁覚種性)・・・無漏智の種子を一分持ってはいるが、修行しても縁覚の悟りしか得られない衆生のこと。

③定性声聞(声聞種性)・・・無漏智の種子を一分持ってはいるが、修行しても声聞の悟りしか得られない衆生のこと。

④不定種性(三乗不乗性)・・・菩薩および声聞・縁覚等と複数の本有種子を併せ持っている衆生で、菩薩の種子を持っている者は成仏できるが、声聞・縁覚の種子のみの者は成仏できない。

⑤無種性(無性有情)・・・無漏智の種子を全く持っていない、成仏できない衆生のこと。

 この五性各別説は、楞(りょう)伽(が)経や解深密経によって立てられたものであり、「悉皆成仏」を説く法華経等の教えは、不定性の者を励まして大乗に入らしめるための方便に過ぎないと「三乗真実・一乗方便」を主張する。

 

<五位百法>

 法相宗の教義の根本は唯識思想である。唯識とは「ただ識のみ」という意味で、一切諸法の本源を尋ねると、すべて識より転変したものであり、自己の心を離れて存在するものは何一つないとする。すなわち、」唯○、認識○が万物の存在を決定するという考え方である。

 この唯識を説明するため、一切諸法を五位に分類している。

 第一位 心王(心は精神の統一作用を司り、万法を生ずるので心王と言う)

 第二位 心所有法(心王が所有している法という意味で、心の作用のこと)

 第三位 色法(五根と五境と法(ほう)処(しょ)所(しょ)摂(しょう)色とを含めたもの)

 第四位 心不相応行法(精神的なものでも物質的なものでもなく、しかも独立したもののこと。例えば、物と物との関係、あるいはそのものの持つ属性や状態などを実体視したものを言う)

 第五位 無為法(因縁には無関係で、永久的に自存し不滅であるところの真理のこと)

 さらに、この五位を百法に細別するが、これらの諸法は、識を離れて存在するものは何もないとして、心王を諸法の主体としている。心王とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識に、末(ま)那(な)識(しき)・阿(あ)頼(ら)耶(や)識(しき)を加えた八識を言う。

 八識のうち、眼・耳・鼻・舌・身の五識を前五識と言い、これは対境をそのまま感受するが、自ら判断したものではなく、第六の意識と共に働いて初めて判断を下し、推量するものである。

 第七の末那識とは、常に第八識の阿頼耶識を対象として起こってくる自我意識である。六識による日常的な感覚・認識作用は、すべてこの自我意識によって継続して統括されている。この末那識を迷いの根源と見る。また煩悩の汚染の根拠となるものであるから、これを染(ぜん)汚(ま)意(い)とも言う。

 第八の阿頼耶識とは、衆生の心の根底にある根本の心を言う。阿頼耶との言語には「蔵(ひそ)む」「蔵(おさ)める」「執着する」という意味がある。これらの意味に応じて、阿頼耶識には次の三つの機能があるとする。

 一、元来、阿頼耶識には、身体のなかにひそんで、身体を生理的に維持する働きがある。

 二、阿頼耶識のなかには、過去のあらゆる身口意の三業が経験として消えることなく残っている。すなわち、煩悩となる存在が種子として宿っているということであり、この故に阿頼耶識を蔵識、一切種子識とも言う。一切諸法は、この阿頼耶識に貯蔵されている種子が顕れて、対境を捉えたものであるから、すべてのものは皆、ただ識のみであるとし、この意味から根本識とも万法不離識とも言う。

 三、意識の底に末那識という自我執着心を立て、この末那識が深層領域において、常に阿頼耶識を対象として、それを自我と思い続けている。

 このように、阿頼耶識に基づいて現実の自己および世界が成立すると説くところから、これを「阿頼耶識縁起」と言う。

 

<三性三無性>

 法相宗の教えでは、すべての存在の本性や在り方を、有無、化(け)実という視点から、「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」の三性と、この三性を空の立場から否定的に見た「相無性」「生無性」「勝義無性」の三無性とに立て分けて説いている。

 仏教においては、あらゆる存在は本来、因縁によって生滅するものであり、実体はないと説くが、これを実体があるものと思い、それに執着する心(能遍計)と、その対象となる境(所遍計)、そして、それらによって認識される存在の姿(遍計所執)を「遍計所執性」と言う。

 また、これが妄想であり、実際には相(姿)のないものであることを「相無性」と言う。

 「依他起性」とは、あらゆる存在は「他」すなわち因縁によって生滅するということであり、他がなければ生じないことから「生無性」と言う。

 「円成実性」とは、完全円満な真実の世界である真如実相の姿で、真如は一切諸法に遍満し、不生不滅にして常住である。これは個に内在する我や、外界の事象としての法ではなく、言説を超越したものであるから「勝義無性」と言う。

 

<転依>

 転(てん)依(ね)とは、依りどころとする劣った法を捨て、転じて勝れた法を依りどころとすることであり、、また、それによって得た果を言う。依とは、染浄・迷悟の法を成立させている依りどころという意で、依他起性のことを言い、転とは、依他起の上の遍計所執性(雑染分)を捨て、依他起のうちの円成実性(清浄分)を得ることを言う。これは『成唯識論』に説かれているもので、法相宗では、この転依を修行の目標としている。

 転依の具体的な実践方法として、資糧位・加行位・通達位・修習位・究竟位という五段階の修行の階位を設けている。

 一、資糧位とは、世俗的な善行を修することによって迷いを生ずる染法種子(迷いを生ずる潜在的な傾向)を抑え、それを仏と成る元手とする位を言う。

 二、加行位とは、前に集めた元手の上に、さらに浄法種子(悟りを生ずるための潜在的傾向)を強めるために、種々の方便を修する位を言う。

 三、通達位とは、初めて悟りを生ずる清浄な智慧を獲得して、後天的・知的な煩悩を断じ、あるがままの真実(真如の理)を体得する位のことで、この時の転依を「通達転」と言う。

 四、修習位とは、先に悟った真如の理を幾度も修め、先天的・情的な煩悩を繰り返し断滅する位のことで、この転依を「修習転」と言う。

 五、究竟位とは、永久にすべての煩悩を断じ、完全円満な仏の悟りを完成した位のことで、この最終的な転依を「果円満転」と言う。この位では、究極的に我に執する煩悩(煩悩障)を転じて仏の涅槃を獲得し、法に執する煩悩(所知障)を転じて無上の菩提を得る「二種転依」が修行の妙果であると強調している。

 以上のように法相宗では、二種転依を究極の悟りの境地としているが、それを得るためには三大阿僧祇劫という長い間の修行が必要とされる。

 

 

 

 

 


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