第一章 仏 教 各 宗 から転載
一、南都六宗
「南都六宗」とは、奈良時代の六つの宗派、倶舎宗・成実宗・ 律宗・ 法相宗・三論宗・華厳宗を言う。「南都」とは、後に京都(平安京)を北都と言ったのに対して、奈良(平城京)を指したものである。
日本への仏教の公伝は六世紀の欽明天皇(または宣化天皇)の時代であるが、推古天皇・聖徳太子(五七四〜六二二)の時代に至って本格的に招来された。
聖徳太子は、摂政として仏教思想を基とした国家社会の構築を目指し、推古天皇十五(六〇七)年、遣隋使・小野妹子を派遣した。 その後も僧侶を含む多くの留学生を髄に派遣して、積極的に大陸文化の摂取に努めた。さらに太子自らも四天王寺を建立し、敬田院・悲田院・施薬院・療病院の四箇院を設置して社会福祉事業を興したほか、法隆寺・中宮寺等を建立して仏教思想に基づく政治を行い、飛鳥時代の繁栄を築いたとされる。
聖徳太子没後、まもなく三論宗が伝わり、次いで法相宗が伝わった。 この両宗に付随して成実宗・倶舎宗が伝えられたが、二宗は三論・法相の両教学を学ぶための補助的な学問宗派に過ぎなかった。さらに奈良時代には華厳宗と律宗が伝えられた。
これら南都六宗は、独自に宗派を形成したものではなく、寺院も原則的には官立であり、国家の庇護のもと、鎮護国家の祈願所としての役割を担うと同時に、仏教教理を研究する場所でもあった。
八世紀になると、全国的に律令体制が確立されるにともない僧尼令等が布かれ、 仏教も国の統治機構に組み込まれていった。
また、聖武天皇は国家の安康と五穀豊穣を祈るため、全国に国分寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立し、さらに総国分寺として東大寺を建立した。
平安時代に入ると、仏教大師最澄と南都六宗との間で幾多の論争が起こった。延暦二十一(八〇二)年、高雄山寺(神護寺)において、最澄は南都六宗七大寺の高僧らに対し、天台の三大部を講じて法華一乗思想を宣揚した。
南都六宗側は最澄の講説に反駁(はんばく)することができず、最澄を讃歎(さんたん)する旨の書状を桓武天皇に提出した。
【南 都 六 宗 関 連 図】
南都六宗ーーー総本山・大本山ーーー現在の宗派
華厳宗 ーーー東大寺 ーーーーーー 華厳宗
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三論宗 ー|
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成実宗 ー|
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倶舎宗 ーーー元興寺 ーーーーーー
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ーー興福寺 ーーーー |
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法相宗 ーーー薬師寺 ーーーーーー 法相宗
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ーー法隆寺 ーーーーーー 聖徳宗
律宗 ーーー唐招提寺ーーーーーーー 律宗
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ー西大事ーー 真言律宗
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