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讃州菴

讃岐善通寺周辺のちょっと昔を探検してみよう。
善通寺・旧陸軍十一師団・琴平参宮電鉄など。

丸亀城についての記事(四国新聞)

2017-07-11 | 近代建築物(丸亀市)



平成29年6月10日(土)の四国新聞、一日一言の記事(引用)
 
丸亀市内を車で走ると、普通に視界に飛び込んでくる。そのランドマークを見るたび、外国に住む日本人観光客との会話が思い出される。「京都もいいが、丸亀城の桜は必ず見に来るんです」。

 丸亀城には市民のほか、大勢の観光客が訪れている。しかも外国人観光客の姿が目立つ。約400年前、標高66メートルの亀山に築かれた平山城には桜や「ニッカリ青江」だけでなく、多くの魅力が詰まっている。

 「石垣の名城」と形容される通り、石垣は堅固さとともに「扇のこう配」と呼ばれる美しい曲線を描く。本丸には現存する木造12天守の中で一番小さくも風格ある白亜の天守が建つ。

 個人的には、二の丸や本丸から眼下に広がる景色も好きだ。城からこれほど近くに街並みや海を眺められる場所が他にあるのだろうか。瀬戸大橋や対岸の岡山をも見渡せる大パノラマだ。

 先日開かれた丸亀のまちづくりを考える市民ワークショップでは「丸亀といえば」との問いに真っ先に挙げられていた。「日本100名城」にも選ばれている国指定史跡のポテンシャルは高い。

 ちなみに、フィクションだが、時代劇ドラマで有名な「桃太郎侍」は丸亀藩にまつわる設定だそうだ。そういうネタも興味をそそられる。

 きょう10日は時の記念日。丸亀城の大手門広場で江戸時代のように正午(九つ刻)を知らせる「時太鼓」の打ち鳴らし式が行われる。市民のシンボルとして愛され続ける丸亀城に足を運んでみよう。また、新たな発見があるかもしれない。







この記事を読むたび、「うんうん、そのとおり」と、うなずいてしまう。

よーし、また丸亀城に行かこい。


平成26年5月撮影。





スモーキーツリー【木田郡三木町】
旧楽天堂病院【多度津町大通り】


 




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丸亀城 延寿閣別館 その2

2017-04-04 | 近代建築物(丸亀市)



以上、平成26年5月撮影。


丸亀城三の丸に延寿閣別館がある。
以前投稿したが、再度記す。

昭和8年に丸亀藩京極家六代藩主京極高朗公の隠居部屋であった「延寿閣」とこれに連なる貴賓室の別館が建築された。「延寿閣」は、昭和60年老朽化の為、解体されたが、今残る「延寿閣別館」は、麻布にあったもと京極家江戸藩邸の建物の一部を移築したもの。








内部は、天井・長押・欄間など、そして、庭からは、絶景を見渡すことができる。




以上、平成29年4月撮影。

京極高朗公は、号琴峰で詩に長じ、大窪詩仏、古賀精里、菊池五山らと交流あり、元治元年『琴峰詩鈔』を出版。藩儒を動員して、『西讃府志』を編纂した。



参考文献:江戸諸藩要覧(東洋書院、昭和57年)







栗林公園の夜桜
『勝地讃岐と其産業陣営』(香川新報社、昭和8年)序
丸亀城 延寿閣別館


 




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丸亀城城代 佐藤掃部4~生駒家家紋

2015-07-15 | 近代建築物(丸亀市)


写真は、生駒家の家紋「波引車」はびきぐるま

豊臣秀吉の朝鮮出兵に参軍した生駒親正、もともと使っていた陣幕紋の内下半分が波の下に隠れたが、戦功を挙げたその事に由来し、家紋を「波引車」にしたという。

丸亀城にちらほら見える「波引車」、そして生駒家に想いを馳せる。



平成27年5月撮影。





安造田東三号墳出土モザイク玉調査報告会(まんのう町琴南公民館)
丸亀城城代 佐藤掃部5~佐藤嗣信の子孫
丸亀城城代 佐藤掃部3~生駒騒動後も生駒家と共に





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丸亀城城代 佐藤掃部3~生駒騒動後も生駒家と共に

2015-06-28 | 近代建築物(丸亀市)



生駒家は、生駒騒動で生駒高俊が改易となり、讃岐高松17万3000石から出羽矢島1万石へ転封となった。
矢島では、生駒高俊の後を嗣いだ生駒高清が弟生駒俊明に2000石を分知した為、8000石となり幕末迄交替寄合として存続している。

丸亀城城代であった佐藤家も生駒家に付き従い、讃岐から出羽へ移り、矢島生駒家の重臣として明治まで続くのです。



平成27年5月撮影。





丸亀城城代 佐藤掃部4~生駒家家紋
丸亀城城代 佐藤掃部2





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丸亀城城代 佐藤掃部2

2015-06-19 | 近代建築物(丸亀市)




丸亀城城代佐藤掃部は、佐藤志摩介の子であり、佐藤孫七郎の弟である。

天正14年(1586年)12月、豊臣秀吉の命を受け、九州島津征伐に従軍し、豊後戸次川に苦戦するも帰国。
天正15年(1587年)8月、讃岐国主生駒正親に2000石で召し抱えられ、生駒正親より国中の仕置を任された。
その法制正しく、何事も甲乙なく執行した。

佐藤掃部は、法華信者と見え、慶長7年(1602年)に本覚寺(現高松市北古馬場)を建立。
また、香川郡上笠井村にある元和5年(1619年)山林300余町歩の確認証には、佐藤彦左衛門(=佐藤志摩介)・掃部親子の署名あり。
このように生駒家の為に忠勤に尽くすも、生駒正俊の代に至り奸臣前野氏たの奸計により牢浪の身となるも、のち、本多中書に召し抱えられた。

以上、讃岐人名辞書(高松製版印刷所、昭和11年)参考。



平成27年5月撮影。




丸亀城城代 佐藤掃部3~生駒騒動後も生駒家と共に
丸亀城城代 佐藤掃部1~佐藤志摩介





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丸亀城城代 佐藤掃部1~佐藤志摩介

2015-06-14 | 近代建築物(丸亀市)




丸亀城の城代に生駒家家臣、佐藤掃部助がなった。
佐藤掃部について紹介する前に父佐藤志摩介について。

佐藤家は、本姓が宮脇。故あって佐藤に改姓した。
讃岐国香川郡伏石村キ(「鹿」の下に「巳」)紋胴城主にして香西氏の武将。
永禄11年(1568年)9月、香西氏が児島を征するに従う中に「佐藤某二十騎」あり。

佐藤志摩介は、初め居石五郎兵衛と云い、伏石城主にして、香西氏の元老。
のち、軍務を息子の佐藤掃部に委ね、今の栗林公園に隠居し、道益と号した。
元亀頃~寛永の初めの人。

天正4年、香西家を代表して敬意を表す為、使者として京都で織田信長に拝謁。
その時、香西家より備前元重の太刀を献上したところ、信長大いに悦び、篤く饗応され、南部産の名馬を賜った。
帰国後、香西家の厩舎に入れると皆悦んだ。

土佐の長宗我部元親が香西に攻め入った際、また香西家が長尾に引き上げる際など、終始香西家の為に尽力。
のち、豊臣秀吉の命を受け、島津征討軍にも従軍し、また生駒時代に於いても子掃部と共に民政上に尽くすところ多大にして今の栗林公園の基礎を築いた人である。


以上、讃岐人名辞書(高松製版印刷所、昭和11年)参考。



平成27年5月撮影。




丸亀城城代 佐藤掃部2
藤川球児 6月20日先発登板
丸亀城~生駒氏の時代





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丸亀城~生駒氏の時代

2015-06-07 | 近代建築物(丸亀市)




丸亀城は、生駒親正の慶長2年(1597年)に着工し、生駒一正の慶長7年に完成した。
生駒一正は、慶長7年高松城に移り、丸亀城には城代が置かれた。

城代として、香川郡伏石村のキ紋胴城主佐藤掃部が就いた。
その後、生駒一正の子、生駒高俊の居城となった。

慶長15年(1610年)生駒一正の後を生駒高俊が家督を嗣いで、元和元年(1615年)一国一城令で丸亀城が廃城となる迄、また城代が置かれた。



平成26年5月撮影。






丸亀城城代 佐藤掃部1~佐藤志摩介
藤川球児 6月20日先発登板
丸亀城搦手門より三の丸まで2





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丸亀城搦手門より三の丸まで2

2015-06-04 | 近代建築物(丸亀市)




丸亀城の南門が大手門であった生駒家・山崎家の時代の北門は、石垣もなく唯だ粗末な丸木柱があっただけだった。
戦国時代の余波が残っていた事もあり、北方の海上警備として東汐入川の川口に川口番所が、そしてその上手に物見番所を置いた。

渡し場附近の東汐入川は、旧土器川であり、丸亀城ができて東方に付け替えられたという。
その川跡が外堀の一部となり、また丸亀城の外堀は東西から汐入川を抜け、瀬戸内海に通じていた。


『新修丸亀市史』(昭和46年、丸亀市)参照。


京極家により大手門が南より北に移設、それはつまり大坂冬の陣も終わり、北方が警備警戒の対象から外交・商業の対象に変わった、もしくはそれを幕府にアピールすることで幕府への警戒を和らげようとしたのかも。



平成26年5月撮影。





丸亀城~生駒氏の時代
丸亀城搦手門より三の丸まで1





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丸亀城搦手門より三の丸まで1

2015-06-02 | 近代建築物(丸亀市)




丸亀城は、『西讃府志』によれば、慶長2年(1597年)生駒雅楽頭親正が築いたと記され、現在の規模とはさほど変わりないが、大手門が南にあり、現在の搦手門に当たる箇所に大手門があった。

立派な大手門の他に桝形門や太鼓楼などが造られていた。



平成26年5月撮影。





丸亀城搦手門より三の丸まで2
藤川球児、四国IL高知ファイティングドッグスに入団決定
丸亀城 搦手門




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丸亀城 搦手門

2015-05-31 | 近代建築物(丸亀市)






丸亀城を南から望んだところ。
丸亀城は、京極家により大手門が北に築かれる迄、南が正面だった。
つまりこの搦手門こそが大手門だったということ。



平成26年5月撮影。





藤川球児、四国IL高知ファイティングドッグスに入団決定
丸亀城搦手門より三の丸まで1
王臣蹇蹇たり、躬の故に匪ず(『易経』)
丸亀城 勤王碑~各務半左衛門




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