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讃州菴

讃岐善通寺周辺のちょっと昔を探検してみよう。
善通寺・旧陸軍十一師団・琴平参宮電鉄など。

細川氏の菩提寺 金光寺【三豊市仁尾町】

2015-01-25 | 町並(三豊市)






三豊市仁尾町にある金光寺(こんこうじ)だ。
仁尾城主細川土佐守頼弘公の墓がある。


金光寺は、行基菩薩の草創。中古、比地中村・大村・仁尾四村を寺領に賜うと云う。
細川家代々の菩提寺として、細川政元公、細川高国公、そして、細川頼弘公が眠っている。(当寺過去帳)
天正年中、土佐長宗我部軍乱入し、坊舎・宝物・旧記等を焼失。

以上、『古今讃岐名勝図絵』(昭和5年)による。




平成26年9月撮影。






さようなら「旧琴平参宮電鉄 善通寺赤門前駅」
香川県内の正月三ヶ日の人出 124万人
覚城院境内~千手観音と三等上人【三豊市仁尾町】



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覚城院境内~千手観音と三等上人【三豊市仁尾町】

2014-12-28 | 町並(三豊市)






覚城院は、宝永4年(1707)三等上人により現在地に移転したもの。

覚城院の本尊である木造千手観音立像は、本面の左右に大きく脇面を配した三面千手で、天冠台上の化仏を合すと27面42臂という極めて珍しい像である。

三面千手の作例は、京都法性寺などに見られるが、県下では他に例がない。
この像は、江戸中期、三等上人により京都より持ち寄られた事が覚城院の縁起に記されている。

西讃府志によれば、
三等ハ仁保村覚城院ニ住リ、能ク仏典ニ通ズ、不動明王霊験記ヲ著ハシテ世二伝フ。

とある。


平成26年9月撮影。





一年の計は元旦にあり(『風流志道軒伝』)
細川氏の菩提寺 金光寺【三豊市仁尾町】
重要文化財 覚城院鐘楼【三豊市仁尾町】



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重要文化財 覚城院鐘楼【三豊市仁尾町】

2014-12-26 | 町並(三豊市)


桃山時代の禅宗様式の鐘楼。
現在は、覚城院にあるが、明治初年の神仏分離令により、加茂大明神より移築された。


平成26年9月撮影。





覚城院境内~千手観音と三等上人【三豊市仁尾町】
仁尾城跡(覚城院)~覚城院沿革【三豊市仁尾町】



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仁尾城跡(覚城院)~覚城院沿革【三豊市仁尾町】

2014-12-21 | 町並(三豊市)








三豊市仁尾町の仁尾城跡に覚城院はある。
大寧山不動護国寺と号し、七宝山麓にあったと云う。
本尊は千手観音(県重文)。真言宗御室派。

仁保浦大寧山覚城院縁起によれば、
創建時期不詳。
治安年間(1021-1024)定朝が再興。
嘉禄2年(1226)罹災。
寛元3年(1245)沙門隆胤、再興を図る。
元徳2年(1330)隆憲、本堂再建の勧進。
応永33年(1426)増吽が堂宇修復。
以後、守護細川氏と共に隆盛した。
天正7年(1579)長宗我部元親の兵火に遭う。

生駒氏の庇護の下、西院五ヶ院の一つに数えられた。

宝永4年(1707)三等上人により仁尾城跡である現在地に移転。覚城院と号す。



平成26年9月撮影。





重要文化財 覚城院鐘楼【三豊市仁尾町】
国に和せざれば、以て軍を出すべからず(『呉子』)
仁尾城跡(覚城院)~山崎豊治の陣屋跡か【三豊市仁尾町】



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仁尾城跡(覚城院)~山崎豊治の陣屋跡か【三豊市仁尾町】

2014-12-08 | 町並(三豊市)




これは、仁尾城跡だ。
現在この地には、江戸時代に移転してきた真言宗の覚城院が建っている。

外観を見るに立派な石垣に見えるが、覚城院の石垣と言われている。

ただ、築城の名手藩主山崎家治の次男山崎豊治の陣屋時代の石垣跡という説もあり、捨てがたい。

山崎家は、3代治頼の時、無嗣断絶となるが、山崎家治の次男山崎豊治が備中成羽藩にて交代寄合にて幕末迄存続している。その山崎豊治の丸亀時代の陣屋が仁尾城跡に建てられたとの説だ。

実際、山崎豊治は「讃岐仁保」にて5000石を知行されており、当時廃城となっていた仁尾城を改修したとしてもなんらおかしくはない。


参照:広報みとよ(平成23年3月号)



平成26年9月撮影。





国に和せざれば、以て軍を出すべからず(『呉子』)
仁尾城跡(覚城院)~覚城院沿革【三豊市仁尾町】
疑わしきは問を思う。(『論語』)
旧百十四銀行仁尾支店【三豊市仁尾町】



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旧百十四銀行仁尾支店【三豊市仁尾町】

2014-12-03 | 町並(三豊市)






三豊市仁尾町にある旧百十四銀行仁尾支店だ。
入口を入ってすぐ見上げると「百十四銀行仁尾支店」の看板(表札)が目に付く。

大正11年に出張所から支店に昇格した。



平成26年9月撮影。




欺くこと勿れ。而して之れを犯せ。(『論語』)
仁尾城跡(覚城院)~山崎豊治の陣屋跡か【三豊市仁尾町】
仁尾の町並~鬼瓦に猿【三豊市仁尾町】





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仁尾の町並~鬼瓦に猿【三豊市仁尾町】

2014-11-30 | 町並(三豊市)




仁尾の町並を探索していると、ふと屋根に目が止まった。

鬼瓦部分に「猿」がいるではないか。

ちょこんと瓦に乗っているようで、なんともかわいらしい。




平成26年9月撮影。




旧百十四銀行仁尾支店【三豊市仁尾町】
空海の足音~四国へんろ展 香川編(香川県立ミュージアム)
仁尾の町並~仁保から仁尾へ【三豊市仁尾町】





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仁尾の町並~仁保から仁尾へ【三豊市仁尾町】

2014-11-19 | 町並(三豊市)






昭和33年四国新聞社発行『香川年鑑1958』によれば、
初め「仁保」と称したが、のち対岸広島県尾道市の繁栄にあやかるため「保」を「尾」に改めたといわれている。

とある。




平成26年9月撮影。




空海の足音~四国へんろ展 香川編(香川県立ミュージアム)
仁尾の町並~鬼瓦に猿【三豊市仁尾町】
仁尾の朝日庖刀2~大矢根兄弟商会(三豊市仁尾町)





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仁尾の朝日庖刀2~大矢根兄弟商会(三豊市仁尾町)

2014-11-17 | 町並(三豊市)
大矢根兄弟商会に関する記事第2弾

先日は、昭和8年(1933年)の記事だったが、今回は更に古く大正9年(1920年)1月7日付、大阪朝日新聞の記事。

讃岐名物万切包丁銑鉄錘

…煙草切包丁の方は三豊郡仁尾村大矢根兄弟商の当主大矢根良吉氏四代の祖が鉄鉢の名工で相伝□□に来た関係から明治二十四年煙草切包丁の製造を始め同三十年株式会社に更めて今日に及びその製□は□□□□の煙草専売局の工場□□□されているのは勿論支那各□□□□に輸出される…

これにより、明治初年の帯刀廃止令に屈する事なく、明治24年煙草切包丁の製造を始めることで活路を見出し、明治31年(前記事及び大矢根利器製作所HPより)株式会社に組織更えした、と判る。

大阪朝日新聞にて、讃岐の名物として紹介されている。


参考:神戸大学附属図書館~電子図書館




仁尾の町並~仁保から仁尾へ【三豊市仁尾町】
仁尾の朝日庖刀1~大矢根兄弟商会(三豊市仁尾町)





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仁尾の朝日庖刀1~大矢根兄弟商会(三豊市仁尾町)

2014-11-15 | 町並(三豊市)
昭和8年、香川新報社発行の『勝地讃岐と其産業陣営』に
仁尾の朝日庖刀と大矢根商会という項目がある。


三豊郡仁尾町の特殊生産事業としてその存在を謳われるものに庖刀製造大矢根商会がある。

然して製造の濫觴(らんしょう:起源)と見るべきは、当主大矢根良吉氏の祖父大矢根政右衛門翁の刀剣鍛冶職に発し、同翁は西讃に有名なる刀匠であったが、その後時代は封建を拭って明治維新となり、帯刀廃止令出づるや当時悉ゆる(あらゆる)刀匠は時代に敗残を喞つ(かこつ:不平を言う)やむなきに至った。

爰に(ここに)政右衛門翁はよくその転換の途を考察し、決然煙草截断(せつだん:切断)用の庖刀製造を着創した。刀剣鍛磨に熟練の翁は、愈々(いよいよ)その業に精進すれば製品の声価は謂わずもがな、朝陽の如くであり。

次いで辰次氏その業を継ぎ、更に当主良吉氏父業を継承するに及ぶや明治31年資本金15万円を以て合名会社を組織し、以来一大飛躍を遂げて今日に至って居る。

目下その製品年産二十万枚に上り、専売局製品を主として一部は支那方面への輸出を見ているが、同商会製品朝日庖刀の声価八紘に高きも蓋しこの由緒ある鍛冶によるものであろう。



この記事に見える大矢根商会は、当時の大矢根兄弟商会と思われる。
そして、現在の「大矢根利器製作所」に発展する。

その礎(いしずえ)は、紛れもなく仁尾にある。




参照:株式会社大矢根利器製作所HP




仁尾の朝日庖刀2~大矢根兄弟商会(三豊市仁尾町)
第17回仁尾八朔人形まつり~浦島太郎【三豊市仁尾町】





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