三条道如斎信宗は上杉謙信の近臣として活動し、その死後は新発田重家に与し上杉景勝と対立する。重家が新発田氏を継承した後の五十公野氏を継いだ人物といわれ、重家と五十公野氏を考える上で重要な人物の一人である。今回は道如斎について検討していく。
1>道如斎の出自と三条氏
道如斎の出自については『上杉御年譜』や『謙信公御書集』にその伝承が記される。それによると、道如斎は能登湯山城長澤氏の一族ではじめ勘五郎を名乗り謙信の近臣として登用され、その後三条の地を与えられたことで三条氏を名乗ったという。これらの記載について確実な史料で確認することはできないが、他に情報もないことからひとまずこれらの所伝を参考にしておきたい。
また地名から三条を名乗ったとされるが、これも実際に三条の地との関係を示す史料はない。三条姓の初見は天正5年11月上杉謙信条書(*1)つまり山吉氏から三条の所領の多くが没収された後であり、所伝は矛盾しないことは示しておく。山吉氏後の三条城は神余親綱の拠点としてみられるが、三条領には様々な人物の所領が混在したであろうから神余氏の存在だけで道如斎と三条の繋がりを否定はできないだろう。
ちなみに、初見から一貫して入道として所見されており、「信宗」=シンシュウ、「義風」=ギフウと読むべきだろう。
2>文書における謙信期の道如斎
天正5年11月16日上杉謙信条書(*1)の奉者として「三条道如斎信宗」が吉江信景(資堅)と並んで見え、これが文書上の初見である。上条政繁へ能登周辺の支配について指示した条書であり、信宗が謙信の近臣として重要な政治的立場にいたことは間違いない。同年11月23日上杉謙信制札(*2)にも信景と共に奉者として見える。天正5年12月23日の日付をもつ『上杉家家中名字尽手本』にも「三条道如斎」として把握されている。
天正6年2月9日小島職鎮書状(*3)、同年2月12日吉江景資書状(*4)宛名にもと吉江信景と並び道如斎が見える。「可然様御取成奉憑候」、「可然様御取成奉頼存候」とその立場は一貫して謙信側近である。
3>文書における景勝期の道如斎
天正6年3月19日鰺坂長実書状(*5)や天正6年3月28日神余親綱書状(*6)などにおいて吉江信景らと共に上杉景勝陣営として去就の怪しい鰺坂氏や神余氏と連絡を取っている。ここから道如斎、信景ら謙信側近が謙信死去直後そのまま景勝側近として活動を継続していたことが推測される。
また、天正6年3月26日北条芳林・景広連書状(*7)、同年3月27日倉賀野尚行書状(*8)の宛名に所見される。関東を拠点とする厩橋北条氏、倉賀野氏らに対して景勝が関東口の様子を心配し使者を派遣し、その返信にあたる。倉賀野氏書状については『新潟県史』などで天正2年3月の上杉謙信による由良氏攻めに際した文書とされているが、使者市瀬(一瀬)氏など内容の共通点から両通は同年のものである。北条氏書状が天正6年である点は入道名芳林の所見が謙信死後のみであることから確実である。よって、倉賀野氏書状の天正2年3月という年次比定は誤りであり、正しくは天正6年3月である。従来の年次比定ではこれが道如斎の初見文書となってしまうため、注意が必要である。
天正6年8月2日三条道如斎信宗起請文(*9)では「今度拙者めしつかいのわらんへ不慮之儀申いたし、於御殿中御取沙汰、致迷惑候」なる事態が生じ、改めて景勝への忠誠を誓約している。単に「召使の童」が失態を犯しただけなのか、敵対する上杉景虎陣営からの調略があったのかは不明だが興味深い所見である。
天正6年4月3日長澤光国書状(*10)、天正7年3月26日長澤光国書状(*11)でも宛名に道如斎が見える。伝承通り、道如斎が長澤氏出身であれば実家との音信ということになるだろうか。
天正7年3月26日遊佐盛光書状(*12)で吉江信景と共に宛名に記されている。これが景勝陣営として活動する道如斎の終見である。文書上所見されなくなることから、御館の乱後においてその景勝による政治体制の構築が進むにつれ次第に道如斎は政治的立場を後退させたことが推測される。のちに新発田重家に与して上杉氏より離反する要因として上杉家の内部構造の変化も挙げられるのではないか。
4>新発田重家と道如斎
上述の文書に次いで所見されるのは、天正14年9月11日増田長盛等三名連署状(*13)である。宛名「道寿斎」が道如斎のことである。梅津源右衛門、遊閑斎なる人物と併記される。同年9月11日新発田重家宛増田長盛等三名連署状(*14)と対応する文書であり、豊臣秀吉より上杉景勝との停戦を調停されている。道如斎は、上杉景勝に敵対する新発田重家へ与する有力武将という位置づけである。
天正14年10月3日三条道如斎義風書状(*15)、同年10月6日三条道如斎義風・新発田重家連署状(*16)において発給文書を認める。名を信宗から義風に改めていることがわかる。
天正15年11月22日豊臣秀吉直書(*17)に「去廿四日、五十公野之地責崩、始道女斎千余打捕」とあり、同年10月24日五十公野城において道如斎が戦死したことがわかる。
同月11月16日伊達政宗書状(*18)には「新発田并菅五郎被刎首、国中平均」とあるが、「菅五郎」は道如斎の仮名と伝わる「勘五郎」と一致しており、内容からも重家と道如斎の戦死を伝える一文とみて良いだろう。よって、仮名は実際に勘五郎(菅五郎)であったと考えられる。
さて、ここで道如斎と新発田重家、五十公野氏の関係について改めて考えたい。『上杉御年譜』、『謙信公御書集』では重家の妻の妹に嫁して五十公野氏を相続したという。重家の反抗に有力武将として最期まで従っているところを見ると姻戚関係の存在はありそうである。しかし、文書上において五十公野姓で所見されない点は興味深い。先述のように天正14年時まで三条姓で確認され、確実な史料で五十公野を名乗ったことを確認できない。五十公野城を拠点とし、そこに籠るほどの軍勢を率いているわけであるから五十公野氏を継承したと考えるのが自然であるが、『覚上御書集』では五十公野領と五十公野城を継承したという表現に留まっているように、継承についても所領・軍と名字は切り離して考えるべきかもしれない。多分に推測を含む考察ではあるが、安易に「五十公野道如斎」と表現することは適切でないように思う。
ここまで、三条道如斎信宗について検討してきた。謙信期において最側近として活動しながらも、後年新発田重家と共に景勝と抗争に及ぶ過程を素描した。五十公野氏との関係については史料的制約により明らかでない部分が多い。特に一貫して三条氏を名乗っている点は注意が必要である。
*1)『新潟県史』資料編5、3337号
*2) 同上、4096号
*3)『越佐史料』五巻、422頁
*4) 同上
*5) 同上、451頁
*6)『新潟県史』資料編5、3688号
*7) 同上、4549号
*8) 同上、3691号
*9)『越佐史料』五巻、553頁
*10)『上越市史』別編2、1489号
*11)同上、1804号
*12)同上、1803号
*13)同上、3139号
*14)同上、3138号
*15)同上、3151号
*16)同上、3154号
*17)『新潟県史』資料編3、324号
*18)『上越市史』別編2、3198号