曙 町 か ら

一立川市民の
ご近所・町内
観察日記





since 2005

五日市街道 蔵

2006-04-15 | sketch/連載/道
庶民には縁の無いものですけど、この街道沿いには多数見かけ
られます。地主が多いという事も理由の一つですが、もしかし
たら物流で儲けた商人もいたのではないでしょうか。五日市街
道が江戸と五日市の交易に使われた事は勿論、北を流れる玉川
上水も水運に利用された時期もありました。水質汚濁が原因で
すぐ中止されましたが、この水運利用廃止で不便になった事が
後の甲武鉄道開設へ繋がっていきます。
撮影ポイント。

五日市街道 砂川六番

2006-04-13 | sketch/連載/道
消防団の第六分団倉庫と、うしろが六番組公会堂。町名区分が
番号というのは珍しいのではないでしょうか。立川に引っ越し
て来た時、回覧板に七番組と書いてあって?と思った事を思い
だしました。住んでいたのは柏町団地でしたが、しばらくする
と柏町の自治会に変わりました。
公会堂の屋根には昔の名残か半鐘が設置してあります。そう言
えば、消防車はサイレンを鳴らすと同時に鐘の音も流しますね。
火事=半鐘の名残でしょうね。撮影ポイント。

五日市街道 稲荷神社

2006-04-12 | sketch/連載/道
けっこう昔からこの場所にあるのは知っていましたが、
久しぶりに見て「こんなに大きかったかな?」というの
が正直な感想。人間の記憶ってかなりいい加減ですね。
以前は住宅の敷地内にあった気がします。現在はその土
地が駐車場になって、その一角で誰でもお参りできます。

五日市街道 砂川七番

2006-04-11 | sketch/連載/道
南北に走る芋窪街道との交差点。ここから手前(東側)が幸町で、
渡ると柏町になる。ここではモノレールが芋窪街道を通っていて、
交差点横に砂川七番駅がある。90年代末にモノレールは開通したが
その時の工事で街道が拡幅された。それにともなって沿道の商店は
立ち退いたり、場所をかえたりで大分おもむきが変わってしまった
ようだ。撮影ポイント。

五日市街道 砂川八番

2006-04-09 | sketch/連載/道
とりたてて珍しいものもない住宅街です。個人的にノスタルジックな
気分になる場所なのでパチリと一枚。立川に引っ越してきた当時通っ
ていた中学が近所にあり、この信号近くのパン屋でたむろしていまし
た。今はその店もなくなり、四中の生徒たちは校舎前のコンビニでも
利用しているのでしょうか。撮影ポイント。

五日市街道 祠

2006-04-07 | sketch/連載/道
道の反対側から眺めただけで、何が刻んであったのかは未確認。
サイズが大きいので目立っていた。よく見かける庚申塚などは、
膝のあたりからせいぜい腰までの高さだがこれは大人の肩のあた
りまであった。よって祠も特大サイズ。撮影ポイント。
今回の位置はちょっと曖昧。毎回撮影した20枚前後の写真から何
枚か選んで紹介しているが、時々場所を忘れる事も。違っていた
らごめんなさい。
--補足情報--
毎回「撮影ポイント」を地図にリンクさせていますが、地図の中心
点は被写体のある場所ではなく、私がカメラをかまえて立った場所
です。

五日市街道 砂川十番

2006-04-03 | sketch/連載/道
若葉図書館近く。南(写真の左側)にはけやき台団地がひろがっている。
正面に写っているけやきの木は市の木にも指定されており、特にこの街道
沿いでよく見かける。昔からの地主の人々は五日市街道沿いに屋敷を建て、
周りをけやきの防風林で囲って生活の場所としていたようだ。そしてその
北側に広大な畑を持ち、さらに北の玉川上水から水を引いていたらしい。
畑の面積は徐々に減って宅地化してきているが、ところどころに残った畑
や、蔵を併設したお屋敷から当時の風景が想像できる。

五日市街道 若葉町からスタート

2006-04-02 | sketch/連載/道
立川の古道も残り少なくなってきて、最後の大物とでも
言えそうな五日市街道です。江戸時代初期に整備された
らしいのですが、それ以前からあった道を統合・拡幅し
たという意味でしょうか。旧砂川村の東端から西へ向か
ってみました。撮影ポイント。
地図上のミニストップを目印に市境を探しましたが、行
ってみると携帯ショップになっていました。
いつもどおり、自転車で移動しながらの撮影ですがとに
かく走り易いというのが一番の印象でした。歩道の幅も
予想より広くガードレールもあるし。子供の頃の印象だ
と、交通量が多く大型車両が頻繁に行き交う横で歩道は
白線で仕切られただけというものでしたが。

五軒家

2006-04-01 | sketch/単発記事・短期連載/その他
万願寺道、田村道、そして芝中道をたどって写真を撮って
みました。この三つの古い道はいずれも陸自の東立川駐屯
地の東のあたりへ向かって伸びています。この辺は立川、
国立、国分寺の市境が入組んでいる場所です。
国分寺にある古い地名の上谷保新田へ向かっていた道と思
われています。ここに五軒家と呼ばれていた場所があった
そうですが、家が五軒あったらそれで集落として認めてし
まうと言う時代はいつ頃まで続いていたのでしょう。
現代からは想像もつきませんが、立川にしても明治に甲武
鉄道が敷かれ、大正に飛行場が出来てから人口増加が始ま
った事を考えると、それまでは江戸時代もしくはそれ以前
の風景が何百年も変わらなかったのではないでしょうか。

最近、私の頭の中にある「昔の立川周辺」のイメージにと
ても近いイラストを見つけたので紹介しておきます。こん
な畑とまるで世界遺産のような原生林に囲まれていたと思
います。その中をSLが駆け抜ける様子は、開拓時代の北海
道のようだったのでは?