曙町2、東橋交差点。
空き缶入れの左に写ってる塊。周りのコン
クリート製のものと比べて、明らかに時代
が違って見える。昭和33年の写真にも写っ
ている。建物、電柱、看板等あらゆるもの
が47年で新しく変わっている中でこれだけ
が昔のまま残っている。
最初は建物を解体した時に残ったものかと
思っていた。しかし、これだけ残す意味が
ない。塚や地蔵なら残すのだろうが、どう
見ても宗教的な意味もないだたの塊だ。
空き缶入れの左に写ってる塊。周りのコン
クリート製のものと比べて、明らかに時代
が違って見える。昭和33年の写真にも写っ
ている。建物、電柱、看板等あらゆるもの
が47年で新しく変わっている中でこれだけ
が昔のまま残っている。
最初は建物を解体した時に残ったものかと
思っていた。しかし、これだけ残す意味が
ない。塚や地蔵なら残すのだろうが、どう
見ても宗教的な意味もないだたの塊だ。
富士見町2、新青梅街道踏切近く。
以前紹介した竹村商店の向かい。隣が空き地で、
その隣が踏切を横断している通りになっている。
昭和37年の写真だと、空き地から通りにかけて
立川ベニア商会の建物が建っていて、当時はま
だこの位置に踏切が移って来ていない。
以前紹介した竹村商店の向かい。隣が空き地で、
その隣が踏切を横断している通りになっている。
昭和37年の写真だと、空き地から通りにかけて
立川ベニア商会の建物が建っていて、当時はま
だこの位置に踏切が移って来ていない。
高松町1、第五小学校近く。
高木紀男著「戦後の立川 カーウォッチング」
けやき出版発行の車の写真集です。
車にあまり興味は無いのですが、背景の町並み
に惹かれて何度もページをめくりました。
昭和37年のこの十字路が写っています。道路
の中の大木が目印で、場所はピンときました。
行ってみると、周りはがらりと43年分変化し
ていました。青いトラックを駐車してある場
所は当時砂利置き場になっていて、おそらく
建築会社の土地でしょうから所有者は同じで
はないかと思われます。
高木紀男著「戦後の立川 カーウォッチング」
けやき出版発行の車の写真集です。
車にあまり興味は無いのですが、背景の町並み
に惹かれて何度もページをめくりました。
昭和37年のこの十字路が写っています。道路
の中の大木が目印で、場所はピンときました。
行ってみると、周りはがらりと43年分変化し
ていました。青いトラックを駐車してある場
所は当時砂利置き場になっていて、おそらく
建築会社の土地でしょうから所有者は同じで
はないかと思われます。
柴崎町2、保健所近く。
駐車場の角にあります。しかも後ろ向き。由来を
知らない人は首をひねるでしょうね。普通は神社
でもお寺でも通りを向いて建っています。この神
明社も出来た当時は当然そうでした。宅地開発・
区画整理で昔からの道は無くなり、建物に囲まれ
てしまったわけです。何故新しくできた通りに向
きを変えなかったのかと言う謎は残りますけど。
話は変わりますが、立川も隣の国立も概ね道路は
碁盤の目状にして利便を計っています。まあ、世
界中大抵そうです。
ところが、立川と国立では碁盤の起点が違ってい
ます。国立の東西方向の道は中央線と平行になっ
ていて、立川は少し角度がずれています。
これは国立が比較的新しい町で、中央線を基準に
して道をつくったのに対して、立川は多摩川を基
準にしたかららしいです。
駐車場の角にあります。しかも後ろ向き。由来を
知らない人は首をひねるでしょうね。普通は神社
でもお寺でも通りを向いて建っています。この神
明社も出来た当時は当然そうでした。宅地開発・
区画整理で昔からの道は無くなり、建物に囲まれ
てしまったわけです。何故新しくできた通りに向
きを変えなかったのかと言う謎は残りますけど。
話は変わりますが、立川も隣の国立も概ね道路は
碁盤の目状にして利便を計っています。まあ、世
界中大抵そうです。
ところが、立川と国立では碁盤の起点が違ってい
ます。国立の東西方向の道は中央線と平行になっ
ていて、立川は少し角度がずれています。
これは国立が比較的新しい町で、中央線を基準に
して道をつくったのに対して、立川は多摩川を基
準にしたかららしいです。