イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

自分の中の荒ぶる富士山!(富士山を想う 2/10)

2015-05-15 | 第五章「和解と平和」

 写真は本栖湖の芝桜であるが、やはり、ピンクと富士山の組み合わせは美しい。対比するものがある世界は何か魅力的なのだ。そういえば世界の神話でも、世界の始まりが例えば、混沌から空と大地が別れる。そんなイメージが世界各国の神話の原型としてあるように思えてならない。

 今回の旅行では、富士吉田市の日本三大奇祭の火祭りについて学んだが、赤い富士山を形作った神輿と、明神神輿の組み合わも不思議な組み合わせといえるかもしれない。荒ぶる神と、それに対比する明神。

   ふじさんミュージアムでの神輿の展示

 そして、ふと思いだすのが、八王子の大栗川流域から観た富士山と丹沢山系の蛭が岳の対比である。京王線沿線にある近くの田端遺跡から観ると冬至に蛭が岳に太陽が落ちることから、蛭が岳が縄文時代の信仰の対象とされていたようだ。それに対する富士山。

 左のピークが蛭が岳、右はご存じ富士山

 今の富士山は、江戸時代以降噴火をしていないこともあってか、私だけでないかもしれないが、神聖で静かで美しいイメージがある。しかし、富士山の長い歴史(といっても10万年程度)の中では、沢山の噴火の爪痕や記録が残されていて、本来は手におえないような何かだったのだと思う。富士吉田の北口浅間神社の赤い富士山のような、荒ぶるイメージが本当なのかもしれない。

 さて、話は変わるが、この2-3日自分の受容性について考えている。この20-30年の自分の歴史を考えたとき、富士吉田の美しく荘厳な明神様の神輿のような時もあれば、赤い富士山の神輿のように1トンの荒ぶる御神輿のような時もあったようだ。それを、生き甲斐の心理学の諸理論で考えると自分の特性がでてくるようだ(理論を知らなくても意識することでも違うだろう)。理想と現実の解釈の問題。生育史からくる未解決のネガティブな感情の問題。

 ふと、昔よく見た、水曜ドラマ「寺内貫太郎」を思い出した。親子喧嘩とちゃぶだい返し、ジュリーで有名なあのドラマだ。昔は何気なく見ていたが、ストレス曲線や性格形成の問題として分析すると楽しいかも。そして、自分の中の受容できない場合の傾向をより知ることで、ちゃぶ台をもって避難する知恵を持つこともできよう。

富士山を想う 2/10

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富士五湖湖畔の愛の原型!(富士山を想う 1/10)

2015-05-14 | 第九章「愛」

 昨日は、台風一過の絶好の時を富士山・三昧で過ごすことができた。昨年くらいから、古代史や比較宗教への興味。生き甲斐の心理学の師匠や学友の薦めもあって、富士山への興味が加速してきたのだ。

 今年も、縄文に興味を持った関係もあり、冬に富士吉田市の上中丸遺跡の地点に行ったり、北口浅間神社や忍野八海や御殿場方面にまで行ったりした。そして、今回は前回・リニューアル改装中で行けなかった富士吉田市歴史博物館(現在はふじさんミュージアムと呼ぶ)、そして、今まで行ったことがなかった河口湖の西に。

 河口湖の西は有名な青木が原樹海があり、西湖、精進湖、本栖湖があるところで、歴史上は平安時代、1200年前ごろに大噴火で、せの海という大きな湖が溶岩で分断され、精進湖と西湖になってしまった経過がある土地だ。

 もちろん、私の興味はそんなところであるが、妻もテレビで本栖湖の芝桜に興味をもっており、意気投合して一緒にいくことに(日帰り)。

 今回の旅で、一番私にとってよかったのは、本栖湖の北側のスポットから富士山を見たことだった。もともと、本栖湖は芝桜がお目当て(もう盛りは過ぎていた)で、じっくり観る予定はなかった。しかし、どういうわけか車のナビが次の訪問地の西湖のいやしの里にセットしていたのだが、道を左折するところで右折のサインを出したことがあり、なんと本栖湖を時計回りに一回周遊することになったのだった。

 一瞬、不気味な青木が原のせいかと思ったりした(笑)。

 

青木が原樹海はいろいろな噂がある土地で、実際車で通ってみると、細い木々が不気味に密集し、電波状況も余りよくなく、ちょっとビックリした。しかし、その結果は素晴らしかった。舗装されている道であるが、細い道で対向車がくれば、バックしなければならないような道路だったが、素晴らしい景色や自然を楽しむことができたのだ。観光客は芝桜に世界から信じられないほど押し寄せてきているのに、本栖湖自体は殆ど人がいない。

 そして、湖の北側で景色のよいところで車を止めのんびりした。水は実に神秘的な色(エメラルド色も含め)を湛え(富士五湖で一番水深が深いとのこと)、富士山は台風一過なので素晴らしかった。風も気持ちよく、水辺からのさざ波の音で明るい感情は、一挙に平安感から、友好的感情、健康感、幸福感、そして統御感(青木が原のナビ事件の混乱感から変化?)まで。

  

 さて、後で、ふじさんミュージアムの上中丸遺跡の展示で知ったが、富士吉田市の縄文人は、桂川沿いに住居を構えていたと思っていたが、実は、忍野、大明見、小明見などは湖であり、湖畔の住居だったのだ。湖畔に住む。多分水を求めてくる動物も含めての好条件から、住み着くのだろが、その美しさや湧き起こる幸福曲線はいかがなものだったろうか。湖畔に住む。それも、豊かな自然の中で静かに住む。縄文人の豊かさが伝わってきたようだ。

 そして、次の目的地、西湖いやしの里に着いた。ここは、西湖西北の根場地区で、昭和41年に台風時の土石流で集落が壊滅するような被害を受けたところだったが、今は当時の面影を再生させたものだ。ふるさとを愛し、それを大切にしようという人々がいたからこそと思うと心が熱くなる。

  

 縄文時代の上中丸遺跡も、火山活動の激化で村を去る人の遺物で徐々に有名になりつつある。多分美しい小明見の湖の湖畔を去りがたく、火山活動が沈静化したら、また来るぞとこころに決めたのか、磨製石器や貴重な黒曜石を小さな土器に詰め埋めて立ち去ったのだ。それが数千年の時間を経て私たちに知られるとは。

 

 生き甲斐の心理学では、愛の原型を学ぶ。人はそれぞれの生育史の中で、愛し愛されるという原型が育まれるのだ。そして、その愛の原型は人生を左右する大切なものだ。そして、愛の原型の舞台は、いろいろあると思うが、やはり故郷が大きいと思う。そして、時には昨日のような美しい風景などは、その自体で愛の原型になることもあるだろう。

 蛇足だが、大災害とか、そういった信じられないような事態があても、まずは自分の愛の原型を意識し、それを大切にして思索(愛の原型は、意識すればするほど、深みと広がりが増すようだ)する。それが、とても大事だと思う。

富士山を想う 1/10

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仕事のなかでの罪悪感から…アインシュタインを考える!(仕事とか家庭とか 10/10)

2015-05-12 | 第四章「愛とゆるし」

 昨晩はアインシュタインについて一晩考えていた。ニュートン以来の物理学の統合、一般相対性理論を編み出したアインシュタインの人生は、私が知る限りアイデンティティの統合という意味でも、自己実現という意味でも優れた方だったと思う。

 そのアインシュタインが、ある日、インタビューで死んで生まれ変わるとしたら、どんな職業に就きたいか?と訊かれたのに対し、なんと、「科学者などにならずに、行商人かあるいは鉛管工か、そういうものになりたい」と言ったそうだ。

 ご存じのとおり、アインシュタインはユダヤ人であり、祖国を後にアメリカに移住する。そしてナチスが原子爆弾を研究していることを知り、アメリカのルーズベルト大統領に原爆製造を提言したそうだ。そして、その原爆がなんと同じ東洋人としてアインシュタインが考えていた日本に落とされる。そんな、こともこの発言に関係したのではないかと思う。

 そんなこともあり、アインシュタインの平和運動は罪悪感に対する目的志向性という観点(エリクソンの理論)からみても、実に筋金入りだと思う。そして、核の廃絶に関しては次のような一般相対性原理のように美しい言葉を残している。

 「全滅を回避しようとする目的は、他のいかなる目的にも優先しなければなりません。」

 私の関与するNPOも東日本大震災での支援活動をしているが、あの福島第一原発事故の後の原子炉問題も今でも囁かれているが、アインシュタインの名言は実にリアルに私に迫ってくる。

 さて、アインシュタインの話の後でおこがましいが、自分のことを考えてみよう。仕事や家庭といった日々の生活に直結する場で、罪悪感の問題がでてくることがある。だいたい、組織の目的とかに挟まれて、いろいろなジレンマ、トリレンマの形をとる。罪悪感は基本的に他者の権利を阻害する形から起こる。そして、心理的な問題ももちろんあるが、魂の領域の問題であること、つまり宗教の領域の問題であることが多い。

 マグマのような、自己を破壊しつくすような罪悪感に遭遇したとき、14の防衛機制をつかってとりあえず回避することは決して悪いことではないが、時間の流れの中で、自分の罪悪感を思索し、マグマに対して目的志向性がはっきりした行動をとることが大事なようだ。そして、罪悪感を意識することは時には私が十字架の贖罪のカトリックの教えに触れて、解放されたように、違った世界を垣間見させてくれることもある。

 アインシュタインの先の「全滅を回避しようとする目的は、他のいかなる目的にも優先しなければなりません。」という言葉は、苦悩の中から到達した、素晴らしい言葉だと思う。

*アインシュタインについては、続天才の世界 小学館創造選書 湯川秀樹著を参考にしました。ありがとうございました。

仕事とか家庭とか 10/10

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劣等感をバネにすること!(仕事とか家庭とか 9/10)

2015-05-11 | 第三章「無意識の世界」

 エジソンは電気自動車開発に力を入れていて、フォードと親友だったそうだ。自動車の動力は電池!こういう信念があったそうだ。自動車が発明されてから一世紀以上たち、これからの自動車は今や電気自動車を抜きにして考えられない時代になってきた。いまさらながらエジソンの先見性に脱帽である。

 ちなみに、自動車もこれから人工知能とビックデータ技術の本格化もあり自動運転化もすぐそこらしい。エジソンが貢献した電子・電気分野産業の究極の形が見えてきている。

 さて、そんなエジソンであるが、学歴は小学校中退。型にはめる教育が大嫌いだったようだ。実際、自分の子供には学校に行かせていない。そして、独学で能力を発揮し、20世紀の代表的な天才として成果をあげていく。

  生き甲斐の心理学を学ぶ私にとって、エジソンに関する興味の一つは、どのような感情をバネに人生を歩んだかということがある。心理学を勉強すればするほど他者のこころの内を想像することの難しさを識るのだが、エジソンの場合はなんだったのだろうか?いろいろあるが、私は劣等感ではないかと想像した。

 幼いころに友達が川で溺れたが、水面に再び浮上することを待ちじっとしていたことがあり、その友達が亡くなってしまい親から酷く叱られるという、罪悪感の問題も抱えていたのではないかと思う。しかし、不遇の身から華々しい仕事をするようになる。それは劣等感をバネにした力ではなかったか。実際、天才は99%のパースピレーション(汗)で、1%がインスピレーション(霊感)でできるものであると、53歳の時にインタビューに答えている。また、毎日16時間以上84歳で亡くなるまで活動的だった。

 エリクソンの人格形成理論からすると、劣等感克服は技能の習得や勤勉性との関係が言われている。そういう視点から考えると納得できる。

 エジソンと比較するのも非常におこがましいが、私も劣等感には幼いころから苦しめられた経験がある。そんな中、身体的な問題は父や祖父の一言により、大きな知恵(解釈が変わる)を頂いたように感じる。また、人生の後半になり、新しい道にチャレンジしたときも師の一言などは、実に考え方を変えさせていただき、劣等感を勤勉性に替えてくれたように思い感謝している。

 それは、私の個人的なことであるが、人生の中で劣等感を前向きな力に変えし、勤勉性に繋げている方も多いように感じている。 

*エジソンについては、続々天才の世界 小学館創造選書 湯川秀樹著を参考にしました。ありがとうございました。

*写真は新宿御苑で撮ったものですが、劣等感とは関係ないです。

仕事とか家庭とか 9/10

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疑惑感のタカラ、大森貝塚周辺!(仕事とか家庭とか 8/10)

2015-05-10 | 第二章「五感と体感」

 先日は大森貝塚に訪ねたり、この数日は大森貝塚に関する文献をいろいろ読んでいるが、心の勉強をしている私にとって大森貝塚ほど疑惑感を考えるのに良い例はないようだ。

 まず、大森貝塚であるが、動物学者(腕足類等)でワイマンの貝塚発掘にも同行した経験のあるエドワード・S・モースさんが東京大学教授の2年契約の職を得て6月17日夜来日する。そして、来日後6月19日横浜から東京に向かう東海道線から大森貝塚を発見する。この年は明治10年、1877年である。何と西南戦争で西郷隆盛が自刃した年。横浜もコレラ騒ぎで大変だったようだ。

 モースさんは、電車の中で何気なく、多くの日本人が普通に観ていた切通しに疑念を抱き、そしてそれが一級の貝塚であることを知覚したのだ。この出会いそのものが、実に神秘的だ。そして、それを記念して、石碑が海の方というか、東海道線の方に向かってというか二つも立っている。

 品川区大森貝塚遺跡公園にある大森貝塚碑 (昭和4年5月26日起工)

 大田区大森貝墟碑 (昭和5年4月建之)

 二つの石碑については後述するが、この疑念を元に、モースは早速9月に発掘調査をし、著しい成果を挙げ12月には明治天皇が天覧されるまでに。その時の上申書が残っているが、当時の重臣の大久保利通(翌年、紀尾井町の変で亡くなる)、岩倉具視、伊藤博文、山縣有朋らの錚々たるハンコも見える。時代の波に乗ったモースさんだったのだろう。

 モースさんは、ダーウィンの進化論の信奉者であり、その後、今でも驚くような報告書(岩波文庫 大森貝塚参考)を書かれる。当然ながら、まだ考古学ははじまったばかりなので、どのくらいの前の時代のものかなど殆ど未知であったが、その中にあって、比較文化的な視点、貝の大きさとか、食人の習慣の有無など、思索の跡は素晴らしい。

 仕事の場の中での疑念。エリクソンでいう疑惑感・恥辱なのだろうか。こうした感情を成熟した人は、神秘的なまで素晴らしい意志力に替えていく。ちらっと見た汽車からの風景を、そのままにしないで、発掘から自分の仕事や生き甲斐に繋げていくのだ。因みに、モースさんは晩年日本の陶器に深い関心を持ったそうだが、これも縄文土器との出会いがあったかもしれない。

 さて、この偉業から時間がたち50年以上経過してから、先ほどの二つの貝塚碑が立つ。昭和4年というのは世界恐慌の年であり、当時は人々の心の中に変な不安感が生まれていたのだろうか。モースさんが、発掘場所を曖昧にしていたこと、それから行政区の問題もあったのだろうか、二つの石碑が立つことになる。資料によると、今では品川区の石碑場所が本物という定説ができたようだが、日本社会の何故かへんに権威に寄り掛か傾向(最近では福島原発事故によって露見した安全神話)が透けて見える。

 湧き起こる疑惑感を、どう処理するか?「船頭多くして舟山に上がる」。個人個人の問題としても重要だが、社会・文化の問題としても重要だと思う。

 モースさんの言葉に、とても素晴らしい言葉があった。

「彼らの集落の遺跡やごみための中味から、現代の野蛮人から大昔の野蛮人を判断するという方法によって、すでに失われたものまでがはっきりわかる。」これは、考古学だけでなく心理学でも同じかもしれない(岩波文庫 大森貝塚 17P)。ストレス曲線のあつかい方が大事なのだ。

仕事とか家庭とか 8/10

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