先日は大森貝塚に訪ねたり、この数日は大森貝塚に関する文献をいろいろ読んでいるが、心の勉強をしている私にとって大森貝塚ほど疑惑感を考えるのに良い例はないようだ。
まず、大森貝塚であるが、動物学者(腕足類等)でワイマンの貝塚発掘にも同行した経験のあるエドワード・S・モースさんが東京大学教授の2年契約の職を得て6月17日夜来日する。そして、来日後6月19日横浜から東京に向かう東海道線から大森貝塚を発見する。この年は明治10年、1877年である。何と西南戦争で西郷隆盛が自刃した年。横浜もコレラ騒ぎで大変だったようだ。
モースさんは、電車の中で何気なく、多くの日本人が普通に観ていた切通しに疑念を抱き、そしてそれが一級の貝塚であることを知覚したのだ。この出会いそのものが、実に神秘的だ。そして、それを記念して、石碑が海の方というか、東海道線の方に向かってというか二つも立っている。
品川区大森貝塚遺跡公園にある大森貝塚碑 (昭和4年5月26日起工)
二つの石碑については後述するが、この疑念を元に、モースは早速9月に発掘調査をし、著しい成果を挙げ12月には明治天皇が天覧されるまでに。その時の上申書が残っているが、当時の重臣の大久保利通(翌年、紀尾井町の変で亡くなる)、岩倉具視、伊藤博文、山縣有朋らの錚々たるハンコも見える。時代の波に乗ったモースさんだったのだろう。
モースさんは、ダーウィンの進化論の信奉者であり、その後、今でも驚くような報告書(岩波文庫 大森貝塚参考)を書かれる。当然ながら、まだ考古学ははじまったばかりなので、どのくらいの前の時代のものかなど殆ど未知であったが、その中にあって、比較文化的な視点、貝の大きさとか、食人の習慣の有無など、思索の跡は素晴らしい。
仕事の場の中での疑念。エリクソンでいう疑惑感・恥辱なのだろうか。こうした感情を成熟した人は、神秘的なまで素晴らしい意志力に替えていく。ちらっと見た汽車からの風景を、そのままにしないで、発掘から自分の仕事や生き甲斐に繋げていくのだ。因みに、モースさんは晩年日本の陶器に深い関心を持ったそうだが、これも縄文土器との出会いがあったかもしれない。
さて、この偉業から時間がたち50年以上経過してから、先ほどの二つの貝塚碑が立つ。昭和4年というのは世界恐慌の年であり、当時は人々の心の中に変な不安感が生まれていたのだろうか。モースさんが、発掘場所を曖昧にしていたこと、それから行政区の問題もあったのだろうか、二つの石碑が立つことになる。資料によると、今では品川区の石碑場所が本物という定説ができたようだが、日本社会の何故かへんに権威に寄り掛か傾向(最近では福島原発事故によって露見した安全神話)が透けて見える。
湧き起こる疑惑感を、どう処理するか?「船頭多くして舟山に上がる」。個人個人の問題としても重要だが、社会・文化の問題としても重要だと思う。
モースさんの言葉に、とても素晴らしい言葉があった。
「彼らの集落の遺跡やごみための中味から、現代の野蛮人から大昔の野蛮人を判断するという方法によって、すでに失われたものまでがはっきりわかる。」これは、考古学だけでなく心理学でも同じかもしれない(岩波文庫 大森貝塚 17P)。ストレス曲線のあつかい方が大事なのだ。
仕事とか家庭とか 8/10