幼いころのギョッ(錯乱)も年をとってくると、より高級?になってくる部分もあるようだ。自分の生き甲斐や自己実現といった、理想領域の問題といったらよいのだろうか、それが、混乱するサクランである。
高校生になったころ、今まで母や妹、そして知人も行っていたカトリック教会に何となく距離を置くようになった。そして、高校1年の秋ごろであろうか、どこまで判っていたか不明であるが、ニーチェの「ツラツーストラはかく語りき」を家の炬燵の中で一人読んでいて、ふと見上げた窓の外に、葉を落とした木立の陰があった。神も死に、自分も死んだような錯乱感。
自分の存在を揺るがすような錯乱感を覚えたのだ。
もちろん、そんな私であったが、その後はいくつかの安堵の時もあり、そんなサクランを継続してきたわけではないが、その時のサクランは、32年後のやはりマサカで解決を見ることになった。私にとっては不思議な体験から、統御感を得てカトリックに完全に戻ったのだ。蛇足だが、その後、カトリックの理論をリッフレッシュした(牛に引かれて善光寺参りのキリスト教版かも)。
今思えば(生き甲斐の心理学を知っていたら)、素直にカトリックのよく話を聴いてくれる司祭のところに行けは短時間で解決したかもしれないのに、30年以上の超遠回りをしてしまった。それも人生ではあるが。
当時、母も私の好きだった知人も、教会に気楽に来たら?と行ってくれたが、私は何か拘ってしまった(若気のいたりである)。
人生、いろいろマサカの錯乱に遭遇することもあるが、閉じられたドアもあるが、開かれるドアもある。マサカのサクランも、より深い幸福感を得るためのサインと考えられないだろうか?その時は大変でも。
(不安の知覚 5/6)
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