壁は仕事、人間関係など、その時、その時で変わるものである。いつも何かの壁にぶつかっている私であるが、40歳台に大きな壁にぶつかった時のことを今でも覚えている。
40歳台の最大の壁は、Aさんとの人間関係であった。その時の状態はどうであったか。
問題を起こすAさんに変化して貰いたかったが、Aさんは頑として変わらなかった。そして私には辛い、惨め、暗澹、・・・そんな暗い感情があったようである。自分の感情を漠然として感じていたが、感情の意味を考える余裕は無かった。
Aさんの行動や、思考は自分なりに理解しているつもりであったが、感情を理解しようとは深く考えていなかった。今思うと、操作し操作される関係であり、育ち育て合うような愛の関係ではなかった。
Aさんに関して、自分の過去への悔いはあった。また問題解決の案はあっても、今ここでの自分の深層に意識を向けなかった。基本的にAさんの問題で、自分が今ここで変わる必要がある問題と考えてなかった。
仕事をすることで、Aさんとの関係は忘れることができた。仕事をしある種の結果をだしたり、同僚と雑談したりで気分を紛らしていた。
また、仕事関係以外に東洋哲学に関する本など、やたらと読んだ。Aさんを救う知識を求めていたのか、自分の心の平安を求めていたのか、仕事のためだったか動機ははっきりしなかった。
テレビゲームにも夢中になることもあった。気休め、逃避、そんなことを良くしていた。
カール・ロジャースのプロセス・スケールという心の状態を見る尺度があるが、以上のような状態であり、概ね底辺をさ迷っていたようだ。
そして、変化への「気づき」の妨げになる3つの確認要素、①アイデンティティの統合、②現実吟味力、③防衛機制の三つに問題があった。
今考えると、愛おしいが困った自分がそこに居た。
次回につづく(気づき論2/5)
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すると子供たちは、それを経験できないまま、いざ、それを体験するときになって、ハタと戸惑うことになります。
子供にとっては不幸なのですが、親は一向にそれに気づいていません。
大兄の、先日の言のように、気付きが理解できていないようです。
コメントありがとうございます。壁にぶつかり苦悩する重要性、貴重な経験になるのでしょうね!