高校生のころ、何を悩んでいたのだろうか。40年くらい前のことを思い出してみる。内心教育や医療などに心に惹かれていたのに(当時の友達は教育や医療の仕事に就く方が多かった)、自分はそうでない方向に向かい、最終的にサラリーマンになってしまった。
若さの特権であろうか、偽善的なことが嫌だったのが一因でもある。
それが、6年くらい前に長年勤めた会社を辞め、福祉の勉強をし、福祉のしごとをまずアルバイトから始めた。
人から勧められたこともあったが、若い頃から考えれば、随分変わった選択であった。また、偽善的などということは、全く脳裏に浮かびもしなかった。
因みに、偽善的という言葉は実際に始めていない地点からの感覚であり、私は職業としては初めていなかったかもしれないが、人生の他の経験から、既に始めていたようなものだった。だから偽善という言葉が浮かばなかったかもしれない。
親しい方の紹介や縁もあり、その後、いろいろ福祉の仕事(福祉車両、介助、介護など)を経験できたが、自分のさまざまな未熟さも味わった。
北原怜子(さとこ)氏の「蟻の街の子供たち」を読むと、<高慢>という繊細な感情の動きがでてくる。
そして、この感情が行動を制御し、氏の行動の質を向上させるかのように見える。決して、この感情が、行動を負の方向に向かわせていないようだ。
カレーの市民やコルベ神父のように他者のために自己犠牲まで踏み切ることは、なかなかできない。ただ、少しずつでも、行動・感情・思考のバランスを保ちながら、向上することはできると信じたい。
かっこよく「覚悟ができている!」と言えなくても。
<愛のバランス 2/4>
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