広島の平和記念式典の中継を見た。やはり、野田首相の言葉に注目したが、同時に放映されていた野田首相のスピーチを聴く参列者の様々な表情をみていると、米国のオバマ大統領の就任演説のような熱気はなく、何とも辺境の日本的な風景であった。原子力の平和利用について、戦後情報操作のためか殆どの国民は疑念を抱かなかったが(私も含め)、今回の福島原発の悲劇を経験し個人として、どのような懺悔があるか注目していた。残念ながら政策当事者としての言葉の重みを感じることはできなかった。
ただ、原爆や原子力発電の問題は、政治家だけの問題ではなく、自分自身の問題であると考えている。
原発の問題が身近な問題となったのは3.11の直後である。外国の国籍をもっている知人が日本を引き上げたり、東京にもホットスポットができて、孫娘の居住地区の放射能レベルをガイガーカウンターを持って調べたりしたことも。3.11後、原発に対し無関心であったことを後悔したものだ。
私の父は、広島県の生まれであるが、原爆の直接的被害は親戚にはなかった。ただ、平和記念公園に行ったりする機会は多く、原爆の異様さは身近に知っていたつもりであった。しかし、原発に対する疑念はまったくなく、原発を自分の問題と感じたこともなかった。
さて、心理学の問題として、プロセススケールの中の「問題に対する関係」を考えて見たい。人は弱いもので、つい自分をごまかし、問題から逃げてしまいがちだ。問題を認識せず、自分を変えようとしない。そして、それ故に自分の成長もなく世の中も変わらない。プロセススケールでいうと低の状態である。
これが流れの中に生き、問題を自分の身近なものとしてくる状態が、中とか高の世界である。
原発の問題は、自分の中で立ち上がってきているが、同じように母の介護の問題とか、NPOの問題とか・・・立ち上がりつつある問題を感じている。プロセススケールの理論からいうと、このような低から中、高へ向かう状態は健全であるので(逆に高、中から低になるのは不健全)、こころの健康はいいかもしれない。
厳しい時代をたのしく生きる 7