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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

「嫌い」から、「何やらゆかし」と思う関係へ!

2008-03-29 | 第四章「愛とゆるし」

 先日、高尾山に登った。妻からは、桜が見ごろになってきたのに、桜もまだの山に行くなんてと笑われた。

 確かに、まだ寒さを感じる山では、桜はまだまだであった。ただ、芭蕉が「山路来て何やらゆかしすみれ草」と読んだ、すみれに出会ったのは嬉しかった。

 ゆかしいという言葉を、辞書で引いてみると、「隔たりのある対象への好奇心を表す語。直接知りたい、見たい、聞きたい。」という意味があった。

 この俳句は1685年春に大津に出る道で読まれた句である。芭蕉41歳の時の句である。

 さて、人間関係の中で、初対面で嫌いかなと思う人が、何となくゆかし(先の辞書の意味で)と感じ始める経過を振り返りながら考えてみる。

 感情は、強烈なものもあれば、微かなものもある。暗いもの、明るいものいろいろあるようだ。そして、感情は、その人が持つ理想と現実のギャップから生じると「生き甲斐の心理学」では教えられる。

 嫌い、苦手、怖い、・・・人を嫌いだと思わせる感情も、自分の理想とかけ離れた他者の存在に向けられる。

 Aさんに対する、初対面の感情は暗かった。そして、ある時些細なことから、Aさんに強い嫌悪感を抱いた。ただ、その時嫌悪感をしっかりと意識化する。その嫌悪感について考える。戦うべきか、逃げるべきか、我慢して関係を維持するか・・・

 Aさんの場合、我慢して関係を維持するを選んだ。

 自分の感情は、それこそ瞬間瞬間に変わっていく万華鏡のようである。Aさんに抱く感情を思うと。嫌悪感から、今では「何やらゆかし・・」に変化している。理由は、敢えて好きになろうとした結果ではなく、自分の理想が変化したか、現実の受け止め方が変わったからだろう。

 Aさんの場合。今となって、嫌悪感を抱いたときの、自分の認識が未熟であったことに気づく。このケース敢えて言えば、嫌い、嫌悪感をしっかり意識したことがよかった。変に無益な思考を巡らせたり、行動を取らなかったのが良かったかもしれない。

 ゆかしと思えるようになった自分。神秘的である。

 「山路来て何やらゆかしすみれ草」

<愛の訓練、嫌悪3/4>

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