対人関係の仕事をしていると、誠実とか信用ということの重大さに気付く。そして、努力の末一度信用を築いて、親しくなることができても、ちょっとしたことで、簡単に信用を失ってしまう恐ろしさも学ぶ。
20歳台でセールスをしたときも、仕事に慣れて、ある程度経験をつむころが危険であった。その中でも優しい人がいて、私が表面的で実のないことばを投げかけると、今のはちょっと違うだろうと教えてくれた。誠実に怒ってくれる人の存在はありがたい。
50歳代で介護や福祉の仕事をしても同じだった。馴れや奢りは過去の成功(ちょっとした)経験から生じ、今ここでの、自分の純粋さと誠実さをふっと忘れさせてしまう。いつも真剣勝負でやらなければならないのが対人相手の仕事だ。暮らしの中のカウンセラーや勉強会の講師も同じである。一生修行なのだろう。
さて、私が7歳の時のアラスカの女性の先生との出会いに戻ろう。
先生は日本人の少年に話しかけて、英語が全くできないことに、すぐ気付いたはずである。しかし、当惑してひたすら沈黙している私に対し、変にとりつくろうこともなく、困惑しつつも誠実に対話しようとした。大きな不安の中にあっても、誠意が伝わってきた。
ロジャースのカウンセリングの理論である、必要かつ充分な6つの条件の3つ目、<治療者の純粋と一致>が成立していたのだろう。表面的にとりつくり、別の簡単で楽な方法もあったかもしれない。そうされなかった先生は何だったのだろうか。後日触れたいが、きっと愛の人だったと思う。私は噛みつこうなどとは微塵も思わなかった!
写真は、国立近代美術館・工芸館の前のオブジェである。いつもこれを見ると、ギリシャ神話でヘラがイオを見張らせたアルゴスを思い出す。眼が沢山あって監視するだけの疑惑感の塊。誠実と信頼は、その対極で人を開放させるのだろう。
(こころの援助を考える⑤(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 6/60)
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