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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

資格や免許を考えてみる (自分は草原の中の大木か、雑草か? 9/10)

2016-08-24 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨日は、家族が普通自動車の免許を取得する関係で、久しぶりに府中の試験場に行った。8年前に普通二種免許を取得するときに行った以来だった。

 そして、今朝は免許とか資格の取得について考えてみた。私は20歳代のときに仕事の関係で普通免許を取っていらい、ほとんど資格とか免許とは縁がなかった。しかし10年くらいまえに、30年近く務めた会社をやめて、全く違う仕事をし始めたときに7-8つ資格や免許をとった時期があった。その後、自分の方向性が変わったこともあるが、実際今役にたっている資格や免許は少ない(まあ、前期高齢者なので)。

 これは一体なんだったのだろうか?もちろん、結構努力をして資格や免許を取得したために、知識や経験が増したこともある。生き甲斐の心理学のように、有形はどうかわからないが無形の財産になったものもある。しかし、一方、なんとなく取ったものもあり、そんな努力をするなら他のことをすべきだったのではと思うものもある。

 厳しい現実の中に生きていると、資格や免許が実際はどうか分らないけど、お守り以上に見えてくる現象があるように思う。生き甲斐の心理学で考えてみると、防衛機制の逃避とか摂取、場合によると同一化といったものに関係するようだ。

 ある種のこころの平安に関係する。防衛機制は、それにより多くのメリットを生み出すバネになるが、一方、厳しい現実から目をそらせる傾向を助長するので、「あれは一体なんだったのだろう」という事態を招くことがある。

 このところ、昨年行ったしまなみ海道の伊予大島周辺の無人島の写真を掲載しているが、島自体も何とも言えぬ風格があり、そこに茂る木々にも風格がある。彼らは確実に言えるのだが、資格や免許があるのでそこにいるわけではない。そして、それは基本的に私たちにとっても同じなのだろう。

自分は草原の中の大木か、雑草か? 9/10

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