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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

大木をテーマにした、縄文時代の親と子の会話は?(自分は草原の中の大木か、雑草か? 2/10)

2016-08-10 | 第二章「五感と体感」

 この大木は筑波山で撮ったのだが、聖地に行くと大木があり、何か元気になる。

 さて、縄文時代に興味を持つようになると、この木はドングリがなるのかとか、灰汁抜きはどうするのか、これから丸木舟を作ったのかなど見方が変わってくる。また、調べていくと新石器時代は日本だけでなく世界的にもどんぐりが食べられたということが分かってくるので、これまた妄想が広大になってくる。

 米であれば、「これはお百姓さんが丹精込めて作ったのだから、一粒一粒大事にしなさい」などと教わり育ってきたのだが、ドングリをベースに作った縄文クッキーや鍋料理などを食べるとき、あるいは石皿で作るとき、親は子にどのように話しながらドングリに愛着を得るようにしたのだろうか。

 「小さいドングリが、こんなに大きく大木になる。しっかり食べて大きくなりなさい」

 「草原の雑草のように、生まれては枯れたり毟られたりする存在ではなく、100年でも500年でも大地に根を下ろす人になりなさい」

 「ご覧、この漆塗りの木器、家の大黒柱。これはみな大木から切り出したもの。ヒト(魂をもった存在という意味がアイヌ語にはあるそうだ)に役立つ大木のような存在になりなさい」

 「今作っている丸木舟も、裏山の大木を切りこしらえている。大木は山だけでなく、広大な海をも越える存在だ・・・しっかりドングリの粉をすりつぶしなさい」

 さて、皆さんはどのように子供に話すでしょう?

自分は草原の中の大木か、雑草か? 2/10

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